第7話 俺のためなら、は免罪符じゃない
翌朝、リカはいつもの曲がり角にいた。
ただ、いつもとは少し違った。
金色に近い髪はいつも通りふわりと揺れている。制服のリボンも少し緩い。鞄を肩に掛けた立ち姿は、遠目に見ればいつもの天宮リカだった。
けれど、俺が近づいても、リカはすぐに笑わなかった。
こちらに気づいたあと、ほんの一瞬だけ目を泳がせて、それから小さく手を上げた。
「おはよ、悠真」
「おはよう」
返事をすると、リカは少しほっとしたような顔をした。
昨日の夜、メッセージでは普通にやり取りした。
おやすみも言った。明日も迎えに来ていいかと聞かれて、いいと答えた。
だから、今朝リカがここにいることは分かっていた。
でも、文字と顔を合わせるのは違う。
リカもそれを分かっているのだろう。
いつものように俺の顔色を見て、即座に睡眠時間を当てにくることもない。歩幅も確認しない。スマホも出さない。
ただ、隣に並んで歩き出した。
距離は、少し遠い。
昨日の帰りよりも、さらに半歩。
「リカ」
「ん?」
「遠い」
リカはびくっとした。
「え、近い?」
「逆。遠い」
「遠いのもダメ?」
「ダメというか、不自然」
「ごめん。距離感バグってるから、今どこが正解か分かんなくて」
「分かんないなら聞けって言っただろ」
「あ、そっか」
リカは少し考えて、半歩近づいた。
「これくらい?」
「まあ」
「近すぎない?」
「大丈夫」
「ほんと?」
「ほんと」
「悠真、昨日怖いって言ったから」
「言ったな」
「だから、あたし、今日は怖くないようにしようと思って」
その声が、少しだけ小さかった。
リカが「怖くないようにしよう」と考えている。
本来なら良いことなのかもしれない。けれど、その言い方があまりにも慎重で、俺は少し胸が痛くなった。
「普通でいい」
「普通が難しい」
「それも知ってる」
「悠真、最近それよく言う」
「リカも努力してるってよく言うだろ」
「努力してる」
「うん」
「でも昨日、失敗した」
「まあな」
ごまかさなかった。
リカは少しだけ肩を落とした。
それを見て、俺は言葉を足す。
「でも、話はできた」
「うん」
「だから今日は、昨日よりマシにすればいいだろ」
「昨日よりマシ」
「そう」
「昨日二十点から四十点まで上がったから、今日は五十点目標?」
「点数制に戻すな」
「戻したほうが分かりやすい」
「今日の目標は、点数じゃなくて普通に学校へ行くこと」
「普通に学校へ行く」
「そう」
「悠真と?」
「俺と」
リカは、ほんの少し笑った。
「じゃあできそう」
「できるできないの話なのか、それ」
「悠真となら、だいたいできそうって思う」
そういうことを朝から言うな。
俺は少しだけ視線を逸らした。
リカがそれに気づく。
「今の、怖くない?」
「怖くはない」
「重い?」
「少し」
「可愛い寄り?」
「……今日は判定を急ぐな」
「はーい」
リカはいつもより素直だった。
素直すぎて、逆に落ち着かない。
昨日のリカは怖かった。
それは事実だ。
けれど、今朝のリカは、怖くならないように自分の手足の置き場所まで考えているみたいに見える。
それはそれで、見ていて少し苦しい。
*
学校へ着くと、中村と田辺は普通に教室にいた。
当たり前だ。
昨日の一件があったからといって、世界が変わるわけではない。
俺が教室に入ると、中村が一瞬こちらを見た。気まずそうに目を逸らす。田辺は友人と話していたが、俺とリカが入ってきたことに気づくと、少し声を落とした。
リカは何も言わなかった。
俺の隣を通って、自分の席へ向かう。
その途中で、中村たちのほうを見ることもなかった。
少なくとも、見たようには見えなかった。
俺は少しだけ安心する。
翔太が席から振り返った。
「おはよう、黒瀬」
「おはよう」
「天宮もおはよう」
「おはよ、佐伯くん」
リカは普通に返事をした。
翔太は俺を見る。
目だけで、どうだ、と聞いてくる。
俺は小さく肩をすくめた。
分からない、という意味だった。
リカは席に座ると、教科書を出し始めた。
いつもなら、ここで俺のほうをちらっと見る。昨日の睡眠時間や朝食を聞く。もしくは今日の点数を確認する。
今日はそれがなかった。
静かだった。
その静けさが気になって、俺は逆にリカのほうを見てしまう。
リカはノートを開いて、何かを書いていた。
授業の準備ではない。
字の量が多い。箇条書きのように、何かを整理している。
俺は嫌な予感がした。
その予感は、一時間目のあとに的中した。
休み時間、俺が廊下へ出ようとした時、リカが小さな声で言った。
「悠真、ちょっといい?」
「いいけど」
「ここじゃなくて、廊下」
俺は頷いて、リカと廊下に出た。
まだ朝の教室前は人が多い。だが、階段横の窓際なら少しだけ落ち着いて話せる。
リカはそこで立ち止まると、鞄から一枚のルーズリーフを取り出した。
俺はそれを見た瞬間、ほぼ内容を察した。
「リカ」
「まだ何も言ってない」
「言わなくても分かる」
「昨日の件について、再発防止策を考えた」
「やっぱり」
リカは真剣だった。
ふざけている顔ではない。
紙には、きれいな字で項目が並んでいた。
『昨日の発言に関する対応案』
一、次に同様の発言があった場合、まず本人に注意する
二、それでも改善しない場合、担任に相談する
三、発言内容と日時を記録する
四、周囲の証言を確保する
五、必要に応じて学年主任へ報告する
六、相手の過去発言や交友関係は、原則として調べない
七、ただし悠真に実害が出た場合は再検討
俺は六と七を見て、深く息を吐いた。
「だいぶまともに見えるのに、最後で不穏になるな」
「でも、昨日よりはまともでしょ?」
「まあ、昨日よりは」
「でしょ?」
リカは少しだけ誇らしそうだった。
いや、確かに前進ではある。
相手の弱点を探るとか、周囲から評判を集めて追い詰めるとか、そういう方向には行っていない。担任に相談する、発言を記録するというのは、むしろ普通に近い。
だが、問題はそこではなかった。
「これ、いつ考えた?」
「昨日の夜」
「俺とメッセージしたあと?」
「うん」
「寝ろって言っただろ」
「寝たよ」
「何時に」
「……一時」
「全然早くない」
「でも二時じゃない」
「比較対象がおかしい」
リカは少し気まずそうに目を逸らした。
「だって、考えちゃって」
「何を」
「また悠真がああいうこと言われたらどうすればいいか」
「俺のため?」
そう聞くと、リカは一瞬だけ口を閉じた。
そして、小さく頷いた。
「うん」
俺はその答えを聞いて、少しだけ胸が重くなった。
昨日もそこを話したはずだった。
俺のために怒るのはいい。だが、俺のためという言葉で相手を追い詰めるな。俺を置いていくな。
リカは謝った。分かったと言った。
でも、夜になって一人で考えると、また「悠真のため」に戻ってしまう。
悪気はない。
むしろ、真剣に考えている。
だからこそ、厄介だった。
「リカ」
「うん」
「これ、全部が悪いとは言わない」
「うん」
「でも、昨日の夜ずっとこれを考えてたってことが、俺はちょっと嫌だ」
リカの顔から、少し色が引いた。
「……嫌?」
「ああ」
「でも、今度は変なことしないようにって」
「それは分かる」
「昨日みたいに怖くならないように、先に決めておいたほうがいいかなって」
「それも分かる」
「じゃあ、なんで嫌なの?」
リカの声が少し揺れた。
「俺のことを、ずっと守る対象として考えてる感じがするから」
言った瞬間、リカが固まった。
俺は続ける。
「俺はリカに守られるだけの存在じゃない」
「……そんなつもりじゃ」
「たぶん、ないんだと思う。でも、リカが『悠真のため』って言う時、時々俺の意思が消える」
「消える?」
「俺がどうしたいかより、リカがどう守りたいかが先に来る」
リカは紙を握る手に力を入れた。
ルーズリーフの端が少し曲がる。
「昨日も言ったけど、俺のことなら俺にも怒る権利がある。俺にも決める権利がある。俺にも、どう終わらせるか考える権利がある」
「……うん」
「それをリカが全部先回りして決めるのは、違う」
リカは黙った。
廊下を、知らない一年生が通り過ぎていく。少し離れた教室から笑い声が聞こえる。朝の学校は、いつも通り騒がしい。
その中で、リカだけが妙に静かだった。
「じゃあ」
リカが言った。
「何もしないほうがいい?」
「そういう話じゃない」
「でも、あたしが動くと悠真は嫌なんでしょ」
「違う」
「違わないじゃん」
リカの声が少し強くなった。
怒っているというより、混乱している声だった。
「あたしが心配すると重いって言われる。調べると怖いって言われる。怒ると怖いって言われる。先に考えても嫌って言われる。じゃあ、あたしは何をしたらいいの?」
「だから、それを一緒に考えるんだろ」
「一緒って、何?」
「俺に聞くんだよ」
「聞いてるじゃん」
「紙にまとめる前に」
「……」
「相手に何かする前に。自分の中で全部決める前に。『こうしたいけど、どう思う?』って聞けばいい」
リカは目を伏せた。
「悠真、めんどくさくないの?」
「何が」
「あたしが毎回そんなこと聞いたら」
「面倒だろうな」
リカが少しだけ傷ついた顔をした。
俺はすぐに続ける。
「でも、聞かれずに勝手に決められるよりはいい」
「……」
「面倒でも、そっちのほうがいい」
リカはしばらく何も言わなかった。
そして、ぽつりと呟く。
「あたし、悠真に面倒って思われてるんだ」
「リカ」
「あ、ごめん。今の、めんどくさい言い方だった」
リカは自分で言って、苦笑した。
けれど、笑えていなかった。
目が赤くなるほどではない。
泣くほどではない。
でも、明らかに傷ついていた。
俺は言葉を探す。
「面倒じゃないとは言わない」
リカが顔を上げる。
「うん」
「でも、面倒だから嫌いになるわけじゃない」
「……そうなの?」
「そうだろ」
「分かんない」
リカは本当に分からないという顔をした。
「面倒って、嫌じゃないの?」
「嫌な面倒と、そうじゃない面倒がある」
「何それ」
「俺も今、言いながら思った」
「適当じゃん」
「でも本当だ」
リカは少しだけ笑いそうになって、すぐに目を伏せた。
「悠真は優しいね」
「そうでもない」
「優しいよ。たぶん普通の人なら、あたしみたいなの、もっと早く嫌になる」
「普通の人じゃないからな。幼なじみだし」
「幼なじみって、便利だね」
「お前がよく使うからだ」
「うん」
リカはルーズリーフを折りたたんだ。
それを鞄へしまう。
「これ、捨てる」
「捨てなくてもいい」
「でも悠真、嫌なんでしょ」
「全部が嫌なんじゃない。内容の中にはまともなのもある」
「どれ?」
「担任に相談するとか、次に言われたら嫌だと言うとか」
「じゃあ残していい?」
「残していい。でも、俺のことなのに俺抜きで作らないでくれ」
「……分かった」
リカは鞄の中のルーズリーフをもう一度見た。
「じゃあ、今度から見せる前に相談する」
「見せる前というか、書く前に」
「書く前?」
「ああ」
「難しい」
「分かる。でもやれ」
「悠真、最近けっこう厳しい」
「必要だろ」
「うん。必要かも」
リカはそう言ったあと、少しだけ息を吐いた。
その顔は、いつもの明るいリカからは遠かった。
チャイムが鳴る。
休み時間の終わり。
教室に戻ろうとした時、リカが小さく言った。
「悠真」
「ん?」
「今日、朝から何点?」
「今聞くのか」
「聞きたい」
俺は少し考えた。
「五十点」
「昨日より上がった」
「ちゃんと聞いたからな」
「でも、ルーズリーフで減点?」
「減点」
「面倒くさい女だね、あたし」
リカは笑って言った。
けれど、俺は笑えなかった。
「そういう言い方はするな」
「え?」
「リカが自分でそう言うと、俺が言わせたみたいで嫌だ」
リカは驚いたように目を見開いた。
それから、少しだけ視線を逸らす。
「……ずるい」
「何が」
「そういうところ」
またそれか。
でも、今日の「ずるい」はいつもより少し重かった。
*
昼休みになっても、リカは少し静かだった。
レイナたちと話してはいる。笑ってもいる。だが、その笑い方がいつもより半歩浅い。
俺は弁当を食べながら、それをちらちら見てしまう。
翔太が向かいでパンをかじりながら言った。
「見すぎ」
「見てない」
「見てる。天宮のことをちらちら見てる。俺じゃなかったら恋だと誤解するぞ」
「しないだろ」
「するだろ。黒瀬、顔に出にくいけど、出る時はわりと分かるぞ」
「何が」
「心配してる顔」
俺は黙った。
翔太は真面目な顔になる。
「朝、何かあった?」
「少し」
「昨日の続き?」
「ああ」
「天宮、やっぱ何か考えてた?」
「対応案を作ってた」
「うわ、あいつらしい」
「かなり真面目なやつだった」
「でも、お前は引っかかった」
「……俺抜きで考えてたからな」
翔太は少し考えたあと、頷いた。
「まあ、それは分かる」
「俺のためって言われると、止めにくい」
「でも止めるしかないだろ」
「そうなんだけどな」
翔太は紙パックのジュースを飲み、少しだけ声を落とした。
「黒瀬。天宮ってさ、たぶんお前を守ることで安心してるんだよ」
「安心?」
「おう。お前が無事なら安心。お前が自分の見える範囲にいると安心。お前に関わる危ないものを先に取り除けたら安心。そんな感じ」
「……たぶん、そうだな」
「だから、お前が『守らなくていい』って言うと、天宮は自分の立ち位置がなくなるんじゃね?」
俺はリカのほうを見た。
リカはレイナに何か言われて、少しだけ笑っている。
その笑顔は、確かに少し頼りない。
「俺は守らなくていいとは言ってない」
「でも、天宮にはそう聞こえてるかもな」
「面倒だな」
「面倒だよ。恋愛ってだいたい面倒だろ。知らんけど」
「急に雑になるな」
「俺は当事者じゃないので」
翔太はそう言いながらも、少しだけ優しい顔をした。
「でもさ、黒瀬。お前もちゃんと言葉にしたほうがいいんじゃね?」
「何を」
「天宮に何をしてほしくないかだけじゃなくて、何なら嬉しいか」
「……」
「ダメ出しだけだと、あいつたぶん迷子になるぞ」
痛いところを突かれた。
確かに、俺は最近リカに「やめろ」とか「それは違う」とか「怖い」とか、そういうことばかり言っている気がする。
必要なことだ。
でも、それだけではリカは迷う。
何がアウトかは分かっても、何がセーフなのか分からない。
そしてセーフが分からないから、今朝みたいに変に遠くなる。
普通をやろうとして、不自然になる。
「……そうだな」
「お、珍しく素直」
「うるさい」
「で、何なら嬉しいんだよ」
「俺に聞くな」
「お前が考えるんだよ」
「急に先生みたいになるな」
「お前らの恋愛倫理の補習に付き合ってる気分なんだよ、俺は」
俺は思わず笑ってしまった。
恋愛倫理の補習。
リカが聞いたら、たぶん変な顔をする。
けれど、かなり近い。
*
放課後、俺はリカに声をかけた。
「今日、一緒に帰るか?」
リカは本当に驚いた顔をした。
「え」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃない。全然嫌じゃない。むしろ今の、あたしが聞き間違えたのかと思った」
「そんなに珍しいか?」
「悠真から誘うの、かなり珍しい」
「そうか?」
「うん。記念日レベル」
「記念日にするな」
「スクショできないのが残念」
「会話をスクショしようとするな」
リカは少しだけいつもの調子に戻った。
それを見て、俺は少し安心する。
レイナがにやにやしながらこちらを見ていた。
「リカ、よかったじゃん」
「うん」
「黒瀬くん、今日はリカをお願いします」
「俺に渡すな」
「だって、朝からリカずっと考え込んでたし」
「レイナ」
リカが焦ったように止める。
レイナは軽く肩をすくめた。
「はいはい。言いすぎない。じゃ、また明日」
レイナが教室を出ていく。
俺とリカも荷物をまとめて、廊下へ出た。
下駄箱へ向かう途中、リカは隣を歩きながら、小さく聞いてきた。
「悠真」
「うん」
「なんで誘ってくれたの?」
「話したかったから」
「朝の続き?」
「それもある」
「……怒る?」
「怒らない」
「じゃあ、何?」
俺は少しだけ言葉を探した。
翔太に言われたことが頭に残っている。
何をしてほしくないかだけじゃなく、何なら嬉しいか。
それを言わなければ、リカはずっと正解を探して迷子になる。
「リカに、言っておいたほうがいいことがある」
「うん」
「俺は、リカに心配されるのが全部嫌なわけじゃない」
リカが足を止めた。
下駄箱の手前。
周りを生徒が通り過ぎていく中で、リカだけが立ち止まった。
「……ほんと?」
「ああ」
「でも、あたしの心配、重いって」
「重い時はある」
「怖いって」
「怖い時もある」
「でも、全部嫌じゃない?」
「全部嫌なら、こうして一緒に帰らない」
リカは目を見開いた。
その顔が、少しだけ泣きそうに見えた。
泣かない。
リカは、こういう時あまり泣かない。
けれど、泣きそうな顔を我慢しているのは分かる。
「俺が疲れてる時に気づいてくれるのは、助かる」
「うん」
「体調悪そうな時に声をかけてくれるのも、ありがたい」
「うん」
「帰りが遅くなった時に心配してくれるのも、嫌じゃない」
「うん」
「でも、勝手に調べたり、先回りして決めたり、相手を追い詰めたりするのは嫌だ」
リカは、ゆっくり頷いた。
「心配は、していい?」
「していい」
「聞いていい?」
「聞いていい」
「でも、決める前に悠真に聞く」
「ああ」
「悠真が嫌って言ったら止まる」
「ああ」
「悠真が言わなくても、怖くなりそうだったら一回止まる」
「それができたらかなり偉い」
「偉い?」
「偉い」
「……今日、初めて褒められた気がする」
「そうか?」
「うん」
リカは少しだけ笑った。
その笑い方が、朝よりずっと自然だった。
「じゃあ、今日ここまでで何点?」
「また聞くのか」
「聞く」
「六十五点」
「上がった」
「ちゃんと聞いてるからな」
「でもまだ低い」
「伸びしろがある」
「悠真、たまに先生っぽい」
「お前が生徒みたいなことをするからだ」
「問題児だけど?」
「かなり」
「そこは否定してよ」
「無理だな」
リカは笑った。
いつものリカに近い笑い方だった。
俺たちは靴を履き替えて、校門へ向かった。
空は少し曇っていた。昨日の夕焼けほど綺麗ではない。風も少し冷たい。
それでも、隣にリカがいると、放課後の道はいつもより騒がしい。
何も話さなくても、リカが何かを考えているのが分かる。
たぶん、また普通の距離感を探している。
でも今日は、俺も少しだけ分かった。
リカをただ止めるだけではだめなのだ。
何が嫌か。
何が嬉しいか。
どこまでならいいのか。
どこからは困るのか。
面倒でも、言葉にするしかない。
「悠真」
「ん?」
「今日、帰ったら一言連絡してって言っていい?」
「いい」
「熱とか体調確認していい?」
「いい」
「朝ごはんの写真は?」
「なし」
「食べた報告は?」
「気が向いたら」
「善処?」
「善処」
「政治家」
「しつこい」
リカは笑った。
そのあと、少しだけ真面目な声になる。
「悠真」
「うん」
「あたし、たぶんまた間違える」
「だろうな」
「即答」
「嘘ついても仕方ないだろ」
「うん。たぶん、また重くなるし、怖くなるし、悠真に嫌って言われることするかも」
「その時は言う」
「うん。言って」
「言われたら、聞けよ」
「聞く。たぶん、すぐには分かんないかもしれないけど」
「それでもいい」
「ほんと?」
「ああ」
リカは安心したように息を吐いた。
「じゃあ、あたし、まだ幼なじみでいていい?」
変な質問だった。
幼なじみでいていいも何も、幼なじみは許可制ではない。
だけど、リカにとってはきっと、そう聞きたいくらい不安だったのだろう。
俺は少しだけ呆れたふりをして言った。
「今さらやめられないだろ」
リカは俺を見た。
その顔が、ぱっと明るくなる。
「今の、ずるい」
「またか」
「うん。ずるい。でも嬉しい」
「ならよかった」
「じゃあ、今日は七十点?」
「自分で上げるな」
「惜しい」
リカは笑った。
その笑顔は、昨日の怖い笑顔とは全然違った。
明るくて、少し照れていて、いつもの天宮リカだった。
*
その夜。
リカからメッセージが来た。
『帰った?』
俺は返信する。
『帰った』
『体調は?』
『普通』
『普通って本当の普通?』
『本当の普通』
『朝ごはんは明日ちゃんと食べる?』
『食べる予定』
『予定は未定』
『うるさい』
少し間が空いてから、リカが送ってきた。
『今日、ちゃんと聞けてた?』
俺は画面を見つめる。
朝のルーズリーフ。
昼の沈んだ顔。
放課後の会話。
リカはたぶん、今日一日ずっと考えていた。
『聞けてた』
そう送る。
すぐに既読がついた。
『よかった』
続けて、もう一通。
『悠真のためなら、って言う前に、悠真に聞くようにする』
俺は少しだけ笑った。
今日のタイトルみたいな言葉だな、と思った。
もちろん、そんなことはリカには言わない。
『それで頼む』
『うん』
『でも、悠真のために何かしたい気持ちはなくならない』
『それは別にいい』
『いいの?』
『やり方の問題』
『難しい』
『知ってる』
『また言った』
『事実だからな』
リカから、少し遅れて返信が来た。
『悠真に知ってるって言われると、ちょっと安心する』
俺は画面を見たまま、しばらく黙った。
知っている。
リカが難しいことも。
普通が苦手なことも。
好きな人を守ろうとして、やり方を間違えることも。
全部分かっているわけではない。
でも、少しずつ知っていくことはできる。
それは、位置共有アプリよりずっと面倒で、ずっと遠回りで。
でも、たぶんずっとまともだ。
『おやすみ』
俺が送ると、すぐに返ってきた。
『おやすみ、悠真』
それで終わりかと思った。
だが、もう一通届いた。
『明日も迎えに行く』
俺は少しだけ笑った。
『知ってる』
送信して、スマホを置く。
明日もリカは曲がり角にいる。
少し重くて、少し怖くて、でも少しずつ聞くことを覚えようとしている幼なじみギャル。
俺の普通の青春は、たぶんもう普通には戻らない。
でも、それを完全に嫌だと思えない自分がいる。
それが一番厄介だった。




