第4話 好きな人の交友関係を把握したいのは普通じゃない
人間というのは、油断した時ほど面倒なことに巻き込まれる。
たとえば、昼休み明けの廊下。
たとえば、提出期限ぎりぎりの委員会資料。
たとえば、別クラスの女子から「黒瀬くん、ちょっといい?」と声をかけられる瞬間。
俺はその時点では、本当に何も考えていなかった。
相手は二年三組の女子だった。名前はたしか、宮原さん。図書委員で、何度か委員会室で顔を合わせたことがある。眼鏡をかけた真面目そうな子で、話し方も落ち着いている。
「あ、黒瀬くん。これ、昨日言ってた貸出記録の修正版」
「ああ、ありがとう。助かった」
「ううん。こっちも確認遅れてごめんね。先生に出す前に一応見てもらったほうがいいかなって」
「分かった。放課後までに見ておく」
「うん。お願い」
それだけだった。
本当に、それだけだった。
会話時間にして三十秒もない。笑い合ったわけでも、妙に距離が近かったわけでもない。宮原さんは資料を渡すと、軽く頭を下げて自分の教室へ戻っていった。
どこにでもある委員会連絡である。
問題は、その十秒後。
「悠真」
背後から声がした。
俺は振り返る前から、嫌な予感がしていた。
天宮リカがいた。
金色に近い髪を揺らして、いつものように明るい顔をしている。しているのだが、目が笑っていない。
いや、正確には笑っている。
笑っているのに、温度がない。
「今の子、誰?」
「図書委員の宮原さん」
「二年三組の宮原琴音さん?」
「……なんでフルネームを知ってる」
「図書委員でしょ。去年は文化祭の展示班。中学は別だけど、同じ塾に通ってた子がクラスにいる。成績はいいけど体育は苦手。昼休みは図書室にいること多め。好きな作家はたぶんミステリー系」
「待て」
「何?」
「情報量がおかしい」
リカは首を傾げた。
「そう?」
「そう。明らかにそう」
「でも、悠真と同じ委員会の子だし」
「だから何だ」
「知っておいたほうが安心じゃん」
その一言で、俺の中の何かが少し固まった。
昨日までなら、たぶん俺はツッコミで流していた。
怖い怖い。
情報屋かよ。
どこで調べたんだよ。
そんなふうに茶化して終わらせたかもしれない。
でも、この前からリカとは距離感の話をしている。保健室で、相手を信じることの話もした。普通の距離感を学ぶと言っていた。
だからこそ、今の言葉は流せなかった。
「リカ」
「ん?」
「それ、いつ調べた?」
「調べたっていうか、見てたら分かることもあるし、友達から聞いたこともあるし」
「友達から?」
「レイナの友達が三組にいるから」
「俺と同じ委員会の女子について?」
「うん」
「なんで?」
リカはきょとんとした。
本当に理由が分からない、という顔だった。
「悠真と関わる子だから」
「……」
「え、何その顔」
「いや」
俺は一度、息を吸った。
廊下には生徒が行き交っている。次の授業まで少し時間があるせいで、ざわめきが薄く残っていた。誰かの笑い声。階段を駆け上がる足音。窓の外から聞こえる部活の掛け声。
そんな普通の学校の中で、リカだけが少し違う場所に立っているように見えた。
派手で、明るくて、可愛い。
それなのに、言っていることはやはり普通ではない。
「リカ。俺と関わる人間を、いちいち把握しようとするな」
「いちいちってほどじゃないよ」
「今の情報量で?」
「最低限」
「最低限の意味を辞書で引き直せ」
リカは少しだけ不満そうな顔をした。
「だって、宮原さん、悠真に資料渡す時ちょっと笑ってた」
「普通だろ。資料渡す時に無表情のほうが怖い」
「悠真も笑ってた」
「礼を言っただけだ」
「でも、悠真って初対面とかそこまで仲良くない女子には、ちょっと丁寧に笑うじゃん」
「分析するな」
「するよ。好きだし」
「好きなら何でも分析していいわけじゃない」
リカの表情が、少しだけ変わった。
その変化は一瞬だった。
怒ったようにも見えたし、傷ついたようにも見えた。
「……あたし、別に悪いことしてないよ」
「悪いことの手前だ」
「手前?」
「俺と話した相手を、誰かに聞いて、どういう子か把握して、安心しようとする。それは、かなり手前まで来てる」
「何の手前?」
「踏み込みすぎの手前」
リカは黙った。
俺も言いながら、少し言葉が強いかもしれないと思った。
けれど、ここで曖昧にすると伝わらない。
リカは悪気なく線を越える。
だから、線がどこにあるのかを言わなければいけない。
「悠真はさ」
リカがぽつりと言った。
「自分がどれだけ無防備か分かってる?」
「無防備?」
「そう。宮原さんが悪い子って言ってるんじゃないよ。でも、悠真って女子に頼まれたら普通に手伝うし、話しかけられたらちゃんと聞くし、相手が困ってたら放っておけないじゃん」
「それは普通だろ」
「普通じゃないよ」
リカの声が、少しだけ強くなった。
「悠真の普通って、わりと危ないんだよ。相手がどういうつもりで近づいてきてるか、考えないでしょ」
「委員会の資料渡されただけだ」
「今回はね」
「今回はって何だ」
「これから先、分かんないじゃん」
「リカ」
「だって、悠真は自分のことを普通だと思ってるけど、あたしから見たら普通じゃないよ。優しいし、変に真面目だし、相手が女子でも男子でも距離の取り方が甘いし、断るの下手だし」
「褒めてるのか貶してるのか分からん」
「心配してる」
「だから、その心配の仕方がおかしいって言ってる」
リカは唇を結んだ。
ちょうどその時、後ろから声がした。
「黒瀬、何してんの?」
翔太だった。
購買の紙袋を片手に、階段のほうから歩いてくる。俺とリカの空気を見て、すぐに顔をしかめた。
「あー……これ、俺が来ちゃダメなやつ?」
「来ていい」
俺が即答すると、リカがちらっとこちらを見た。
「悠真、今ちょっと助け求めた?」
「求めた」
「正直すぎない?」
「こういう時に第三者がいるのは大事だ」
翔太は紙袋を抱え直し、俺たちの前で足を止めた。
「で、何。天宮がまた黒瀬の人権と愛情の境界線を反復横跳びしてる感じ?」
「佐伯くん、その表現ひどくない?」
「合ってる自覚は?」
「……ちょっとある」
「あるのかよ」
俺は思わずツッコんだ。
リカはむっとしながらも、完全には否定しなかった。
翔太は俺を見る。
「何があった?」
「委員会の宮原さんから資料もらった」
「おう」
「リカが宮原さんの情報をだいぶ知ってた」
「どのくらい?」
「クラス、委員会、去年の文化祭、塾の知り合い、昼休みの居場所、好きな本の傾向」
翔太はリカを見た。
リカは少しだけ胸を張った。
「好きな本の傾向は推測」
「そこじゃないんだわ」
翔太は深いため息をついた。
「天宮」
「何」
「それ、黒瀬じゃなくても引くぞ」
「……でも、悠真と関わる子だし」
「うん。その理屈が怖い」
「怖いって言わないで」
リカの声が少しだけ沈んだ。
翔太は少し気まずそうにしたが、すぐに真面目な顔に戻った。
「いや、でも言うわ。怖いぞ。それは」
「佐伯くんまで?」
「俺まで。ついでに言うと、世間もだいたいこっち側」
「世間って誰」
「倫理と常識の連合軍」
「敵が大きい」
「敵じゃない。味方にしろ」
リカは黙った。
俺は少しだけ翔太に感謝した。
茶化しながらも、翔太はこういう時にちゃんと線を引いてくれる。
リカは俺には甘える。俺もリカにはどうしても言い方を選んでしまう。
だから、翔太くらい雑に言ってくれる存在は必要なのかもしれない。
「リカ」
俺は改めて言った。
「宮原さんのことを知ってるのが悪いって言ってるんじゃない。たまたま知ってたなら仕方ない。でも、俺と関わるから知ろうとするのは違う」
「……」
「俺の交友関係は、俺のものだ」
リカが顔を上げた。
「悠真のもの」
「ああ」
「でも、あたしは?」
「リカは、リカだろ」
「幼なじみなのに?」
「幼なじみでも」
「好きなのに?」
「好きでも」
その言葉を言うのは、前より少しだけしんどかった。
リカが本気で傷つきそうな顔をしたからだ。
けれど、言わなければいけなかった。
リカはしばらく黙っていた。
廊下のざわめきが、変に大きく聞こえる。
翔太が気まずそうに頭をかいた。
「まあ、その……天宮が黒瀬を大事にしてるのは分かるけどな」
「うん」
「でも黒瀬を大事にするのと、黒瀬の周りを全部確認するのは違うだろ」
「……佐伯くんも、悠真の周りでしょ」
「俺は自己紹介済みの安全物件です」
「安全かな」
「おい」
少しだけ空気が緩んだ。
リカもほんの少し口元を動かした。
でも、笑いきれてはいない。
「悠真」
「うん」
「じゃあ、あたしは何を知ってていいの?」
その聞き方が、妙に子供っぽかった。
俺は言葉に詰まる。
リカは続けた。
「悠真の体調は?」
「それは、俺が言う」
「言わなかったら?」
「言うようにする」
「交友関係は?」
「俺が話したいことは話す」
「話したくないことは?」
「話さない」
「……あたしが心配でも?」
「ああ」
「悠真が変な子に引っかかったら?」
「その時は相談する」
「相談しなかったら?」
「信じろ」
リカは目を細めた。
「信じるって、難しい」
「知ってる」
「悠真は簡単に言う」
「俺だって簡単には言ってない」
翔太が横で小さく頷いた。
「まあ、黒瀬も天宮にちゃんと話す努力は必要だな」
「俺も?」
「お前も。天宮だけが距離感バグってるみたいな顔してるけど、お前も天宮に心配かけるようなこと何度かやってるだろ」
「それは……」
「倒れた話とか」
「翔太、なんで知ってる」
「天宮から聞いた」
俺はリカを見る。
リカは気まずそうに目を逸らした。
「言ったのか」
「ちょっとだけ」
「どこまで」
「悠真が大丈夫って言って大丈夫じゃなかった話」
「わりと核心だな」
「佐伯くん、友達だし」
翔太が頷く。
「俺は相談役です。なお給料は出ません」
「チョコでいい?」
「もらいます」
「もらうのかよ」
妙なやり取りで、少しだけ場が軽くなった。
けれど、問題はまだ残っている。
リカは俺を見る。
いつもの明るいギャルの目ではない。
不安と、納得できなさと、それでも理解しようとする気持ちが混ざった目だった。
「悠真は、あたしに知られたくないことがある?」
「ある」
リカの顔が一瞬止まった。
俺はすぐに続ける。
「リカが嫌いだからじゃない。誰にでもあるだろ。知られたくないことくらい」
「佐伯くんにも?」
「ある」
翔太が即答した。
「俺なんか秘密だらけだぞ。昨日の夜、筋トレしようと思って腕立て三回でやめたこととか」
「それは秘密にしとけ」
「今、公開してる」
リカは少しだけ笑った。
「三回は少ないね」
「うるさい。ゼロより偉いだろ」
「それはそう」
リカは笑ったあと、少しだけ目を伏せた。
「あたし、悠真のことなら知ってていいって、どこかで思ってたかも」
俺は黙って聞いた。
「幼なじみだし。好きだし。悠真、放っておくと無理するし。だから、あたしが見てればいいって」
「うん」
「でも、それって悠真からしたら怖いんだよね」
「怖い時がある」
「……そっか」
リカは小さく息を吐いた。
「宮原さんのこと、もう聞かない」
「ああ」
「レイナの友達にも、これ以上聞かない」
「頼む」
「でも」
「でも?」
「悠真が自分から話すのは、聞いていい?」
その言葉に、俺は少しだけ力が抜けた。
「ああ。それはいい」
「女子と話した時も?」
「内容による」
「楽しそうだったら?」
「リカ」
「分かった。今のはちょっとアウト寄り」
「自分で分かるならセーフ寄りだ」
「セーフなの?」
「努力点」
リカは、ほんの少しだけ笑った。
「何点?」
「今日は……六十五点」
「低い」
「宮原さん情報で大幅減点」
「じゃあ、ここから挽回できる?」
「できる」
「どうやって?」
「聞きすぎない」
「難しい」
「知ってる。でもやれ」
「悠真、今日ちょっと先生みたい」
「お前が生徒になってくれたら楽なんだが」
「生徒にしては問題児だよ?」
「自覚があるなら助かる」
翔太が横から口を挟んだ。
「ちなみに俺は保護者面談に呼ばれた友人役な」
「役が細かい」
「俺、こういう修羅場の立ち位置だけは上手いから」
「誇ることじゃない」
チャイムが鳴った。
次の授業が始まる合図だ。
俺たちは教室へ戻ることにした。
リカは俺の隣を歩いていたが、いつもより少しだけ距離があった。
たぶん、意識している。
近づきたい気持ちを、今は抑えている。
それが分かるから、俺は何とも言えない気持ちになる。
教室の前で、リカが立ち止まった。
「悠真」
「ん?」
「宮原さんのこと、嫌いになったわけじゃないから」
「宮原さん?」
「うん。悪い子って思ってるわけじゃない。ただ、悠真と話してたから気になっただけ」
「分かってる」
「ほんと?」
「ほんと」
リカは少し安心したように頷いた。
それから、ぽつりと言う。
「あたし、嫉妬とか、たぶん下手なんだよね」
「嫉妬に上手い下手あるのか?」
「あるでしょ。可愛い嫉妬と、怖い嫉妬」
「……まあ、あるか」
「あたしのは?」
「正直、今日は怖い寄り」
「うわ、正直」
「嘘つくよりいいだろ」
「うん。いい。ちょっと刺さったけど」
リカは自分の胸元を軽く押さえて、わざとらしく痛がるふりをした。
でも、その顔には少しだけ本当の痛みが混じっていた。
「じゃあ、可愛い嫉妬ってどうやるの?」
「俺に聞くな」
「悠真、普通の先生でしょ」
「恋愛の先生ではない」
「じゃあ佐伯くん」
急に振られた翔太が、心底嫌そうな顔をした。
「俺に投げるな。俺だって恋愛偏差値そんな高くない」
「でも第三者」
「第三者にも限界がある。えー……可愛い嫉妬っていうのは、たぶん相手の情報を裏で集めないやつ」
「基本からだね」
「おう。まず犯罪っぽさを消すところから始めよう」
「犯罪じゃないし」
「ぽさの話」
リカはむっとしたが、すぐに考え込んだ。
「じゃあ、悠真が女子と話してて嫌だったら、どうすればいいの?」
翔太は俺を見た。
俺も翔太を見た。
なぜか二人で目を逸らした。
「そこは本人に聞けよ」
「逃げた」
「逃げたな」
リカがじっと俺を見る。
仕方ないので、俺は言った。
「普通に言えばいいんじゃないか」
「何を?」
「ちょっと嫌だった、とか」
「それだけ?」
「それだけ」
「相手の情報は?」
「いらない」
「対策は?」
「いらない」
「分析は?」
「いらない」
「え、本当にそれで嫉妬になるの?」
「なるんじゃないか?」
リカは真剣に考えた。
そして、俺を見上げる。
「じゃあ、言う」
「今?」
「うん」
「ここで?」
「練習」
リカは少しだけ頬を赤くした。
それから、視線を泳がせながら言った。
「悠真が宮原さんと話してて、ちょっと嫌だった」
言ったあと、リカは自分で驚いたように口を閉じた。
俺も、予想以上に反応に困った。
さっきまで宮原さんの情報を並べ立てていた時より、ずっと普通で、ずっと可愛かった。
翔太が小さく「お」と声を漏らす。
「今のは?」
リカが聞いた。
俺は少し考えて答えた。
「……たぶん、可愛い寄り」
リカの顔が、分かりやすく明るくなった。
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんでもいい」
リカは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ胸の奥が変な感じになった。
今のリカは、怖くなかった。
重くもなかった。
ただ、不器用に嫉妬している女の子だった。
「じゃあ、次からそれにする」
「毎回嫉妬する前提で話すな」
「だって、悠真が女子と話す可能性あるじゃん」
「あるだろ。学校なんだから」
「じゃあ練習が必要」
「練習しなくていい」
「可愛い嫉妬、練習する」
「努力の方向性が斜めなんだよ」
リカは笑った。
今度は、いつものリカらしい笑顔だった。
*
その日の放課後、俺は委員会室へ行った。
宮原さんからもらった資料を確認する必要があったからだ。
正直、少し気まずかった。
別に宮原さんが悪いわけではない。むしろ完全に巻き込まれ事故である。
委員会室には数人の生徒がいた。宮原さんも机の前で資料を整理している。
「あ、黒瀬くん。修正版、どうだった?」
「大丈夫そう。先生に出せると思う」
「よかった。ありがとう」
「こっちこそ」
普通の会話。
普通の距離。
普通の委員会。
なのに、俺は一瞬、廊下のほうを見てしまった。
リカが見ているのではないかと思ったのだ。
いない。
当たり前だ。
リカは今、レイナたちと教室にいるはずだ。
俺は何を警戒しているのだろう。
「黒瀬くん?」
「あ、ごめん。何でもない」
「大丈夫? なんか疲れてる?」
「ああ、いや。大丈夫」
言ってから、自分で少し笑いそうになった。
また大丈夫と言った。
リカが聞いたら、たぶん顔をしかめる。
宮原さんは小さく笑った。
「黒瀬くんって、いつもちゃんとしてるよね」
「そうかな」
「うん。委員会の仕事も、面倒くさがらずにやってくれるし」
「まあ、誰かがやらないと終わらないし」
「そういうところだと思う」
褒められているのだろうか。
俺は少し困った。
宮原さんは、俺の反応を見て慌てたように手を振った。
「あ、ごめん。変な意味じゃなくて。普通に助かってるって話」
「分かってる。ありがとう」
それだけの会話だった。
だが、教室に戻る途中、俺はふと思った。
リカがもしこれを見ていたら、どう感じるのだろう。
また不安になるのか。
嫉妬するのか。
それとも、今日の約束を思い出して我慢するのか。
そう考えている時点で、俺の中にもリカの存在がかなり入り込んでいる。
面倒な話だ。
*
教室に戻ると、リカはいなかった。
レイナが鞄を持って席を立つところだった。
「あれ、黒瀬くん。リカなら先に帰ったよ」
「先に?」
「うん。今日はレイナたちと駅前寄るんじゃなかったのかって聞いたら、『ちょっと普通の練習』って言ってた」
「普通の練習?」
「黒瀬くんなら分かるんじゃない?」
レイナは意味ありげに笑った。
「リカ、今日は黒瀬くんの委員会を覗きに行かなかったよ。えらいでしょ」
「……」
「でも、めちゃくちゃ行きたそうだった」
「だろうな」
「廊下まで行って戻ってきて、教室のドアの前で三回くらい深呼吸してた」
「それは……」
俺は何と言えばいいのか分からなかった。
可愛いと思ってしまった。
いや、状況としてはだいぶおかしい。好きな相手が女子と委員会で話すのを見に行きたい衝動を、教室のドアの前で深呼吸して抑えているギャル。冷静に考えるとかなり変だ。
でも、行かなかった。
リカは我慢した。
俺の言葉を、ちゃんと聞こうとした。
「黒瀬くん」
レイナが少し真面目な声を出した。
「リカ、変でしょ」
「本人に言ったら怒るぞ」
「知ってる。でも変だよ。悠真くん絡むと、ほんと変」
「……まあ」
「でも、あの子なりに頑張ってるからさ。嫌なことは嫌って言っていいけど、頑張った時はちゃんと見てあげて」
レイナはそう言うと、軽く手を振って教室を出ていった。
俺はしばらくその場に立っていた。
夕方の教室は、もう人が少ない。
机の影が長く伸びて、窓の外の空が少しずつ淡いオレンジに変わっている。
俺はスマホを取り出した。
リカにメッセージを送る。
『今日は覗きに来なかったんだな』
既読は、すぐにつかなかった。
珍しい。
しばらく待つ。
ようやく既読がつき、返信が来た。
『行きたかった』
素直すぎる。
次の返信。
『でも行かなかった』
俺は少し笑った。
『えらい』
送信してから、自分で少し恥ずかしくなった。
子供に言うみたいだ。
だが、リカからの返信は早かった。
『何点?』
やっぱり点数制は続くのか。
俺は考えた。
宮原さん情報で大幅減点。
しかし、可愛い嫉妬の練習。
委員会を覗きに来なかった。
聞きすぎない努力。
俺は返信した。
『七十五点』
すぐに返ってくる。
『上がった』
『行かなかった加点』
『でも最初に調べたから減点』
少し間が空いた。
『うん。ごめん』
その一文を見て、俺はスマホを握る手に少し力を入れた。
リカは謝れる。
おかしいことをする。
怖いことを言う。
距離感は壊れている。
でも、謝れる。考えようとする。変わろうとする。
だから厄介で、だから放っておけない。
『次から、嫌だったら普通に言え』
そう送る。
リカから、少し遅れて返信が来た。
『悠真が女子と話してて、ちょっと嫌だった』
俺は廊下で立ち止まった。
画面を見て、変な笑いがこぼれる。
素直すぎる。
今言うのか。
『それは可愛い寄り』
送ると、即座に既読がついた。
返信。
『やった』
そのあと、もう一通。
『でも、可愛い嫉妬って疲れる』
俺は返信する。
『怖い嫉妬よりはいい』
『じゃあ練習する』
『ほどほどに』
『ほどほどって難しい』
『知ってる』
『悠真、知ってるって言うの優しいね』
何と返せばいいか分からなかった。
俺は少し迷ってから、短く送った。
『帰る』
『気をつけて』
『位置共有は?』
冗談のつもりだった。
リカからの返信はすぐだった。
『言わない』
少し間が空いて、もう一通。
『言いたいけど』
俺は笑った。
リカは今日も、少しだけ我慢している。
俺はスマホをしまい、昇降口へ向かった。
普通の青春は、たぶんもっと簡単だ。
好きな相手が他の女子と話したら、少し拗ねる。
それで終わり。
でもリカの場合、そこに情報収集と分析と警戒対象の設定が入りかける。
面倒だ。
怖い。
重い。
けれど、今日の最後にリカが送ってきた一文は、少しだけ普通だった。
悠真が女子と話してて、ちょっと嫌だった。
その普通の嫉妬を、俺は悪くないと思ってしまった。
校門を出る頃には、空が夕焼け色に染まっていた。
明日、リカはまた曲がり角で待っているのだろう。
そしてたぶん、こう聞いてくる。
昨日のあたし、何点だった?
俺はきっと呆れながら答える。
七十五点。
するとリカは、不満そうにして、それでも嬉しそうに笑うのだ。
普通からは、まだかなり遠い。
でも少しずつ、近づいている。




