第3話 幼なじみの距離感、たぶん少し近すぎる
天宮リカは、学校ではかなり目立つ。
これは、別に幼なじみ補正で言っているわけではない。
明るい金髪寄りの髪。校則違反にならない絶妙な着崩し。派手すぎないけれど目を引くネイル。誰とでも自然に話せる距離感。休み時間になると、だいたいリカの周りには女子が何人か集まっている。
それだけなら、よくいる陽キャギャルだ。
問題は、俺に対する距離感だけが、なぜか校則どころか社会常識ぎりぎりを攻めてくることである。
「悠真、今日ちゃんと寝た?」
三時間目の終わり。
教室のざわめきの中で、リカが当然のように俺の机の横へ来た。
昨日、保健室へ連行された俺は、リカに「ちゃんと寝る」と約束させられた。約束させられた、という言い方は少し違うかもしれない。小指まで出された時点で、こちらに拒否権はあまりなかった。
「寝た」
「何時?」
「十一時半」
「ほんと?」
「ほんと」
「スマホ見てた?」
「少しだけ」
「少しって何分?」
「そこまで申告する必要あるか?」
「ある」
「ない」
「じゃあ間を取って、だいたい何分?」
「間を取れてない」
リカは俺の机に手をつき、少し身を乗り出してきた。
近い。
普通に近い。
俺が椅子を少し後ろに引くと、リカは不思議そうに首を傾げた。
「なに?」
「近い」
「幼なじみじゃん」
「幼なじみは免罪符じゃない」
「でも、幼なじみって距離感バグってても許される枠じゃない?」
「そのバグを自覚してるなら修正しろ」
「えー、でも今さら普通の距離に戻ったら、逆に寂しくない?」
「俺の意見を聞いてるようで聞いてないな」
リカはにこっと笑った。
「じゃあ聞く。寂しい?」
「……急に真面目に聞くな」
「ほら、答えられない」
「そういう聞き方がずるいんだよ」
「ずるくないよ。好きな人の困った顔が見たいだけ」
「それをずるいと言う」
周囲から、ひそひそ声が聞こえた。
俺は反射的に教室を見回した。
案の定、何人かがこちらを見ていた。女子二人が口元を隠して笑っている。男子の一人は「また始まった」という顔でノートを閉じていた。
やめてほしい。
俺とリカのやり取りが、クラスの小さな名物になりつつあるのを感じる。最悪だ。いや、たぶん悪目立ちではない。クラスの空気としては軽いラブコメ扱いなのだと思う。
ただし、こちらとしては毎回命綱なしの綱渡りである。
「天宮さんさ」
隣の席の女子、橘レイナが笑いながら話しかけてきた。
リカの友達で、明るくてノリがいい。髪は茶色で、リカより少し落ち着いた雰囲気だが、ギャル友達としてはかなりまともな部類に入る。
少なくとも、俺にGPSを持たせようとはしてこない。
「悠真くん相手だと、距離近すぎない?」
「近いかな?」
「近いよ。今、ほぼ机に乗り上げてた」
「でも悠真だし」
「出た。便利ワード」
レイナは苦笑した。
「リカってさ、他の男子とはちゃんと距離取るじゃん。喋るけど、変に近づかないし。なのに悠真くん相手だと、もうなんか……飼い主に突進する大型犬みたい」
「誰が大型犬だ」
俺が言うと、レイナは手を振った。
「黒瀬くんじゃなくてリカのほう」
「なお悪い」
リカは少し考えてから、俺の肩に軽く手を置いた。
「じゃあ悠真が飼い主?」
「置くな」
「飼い主じゃないの?」
「違う」
「じゃあ何?」
何、と聞かれて困る。
幼なじみ。
それが一番正しい。
けれど、リカが求めている答えはたぶん、それだけではない。
俺が黙っていると、レイナが楽しそうに目を細めた。
「おー。黒瀬くん、今ちょっと詰まった」
「詰まってない」
「詰まってたよね、リカ」
「うん。悠真、こういう時だけ黙る」
「黙らせてる側が言うな」
レイナは笑ってから、ふとリカを見る。
「でもさ、リカ。黒瀬くんが相手だからって、何でも近づきすぎると嫌がられるよ?」
何気ない一言だった。
だが、リカの指先が俺の肩からすっと離れた。
ほんの一瞬。
本当に、ちょっとした変化だった。
けれど俺には分かった。
リカは笑ったままだったが、目だけが少し揺れた。
「分かってるよ。最近、境界線の勉強中だし」
「境界線の勉強?」
レイナが首を傾げる。
リカは俺のほうを見た。
「ね、悠真」
「そこで俺に振るな」
「先生じゃん」
「何の先生だよ」
「普通の距離感の先生」
「俺も別に普通代表じゃない」
「でも、あたしよりは普通」
「それは否定できない」
レイナが「何その会話」と笑った。
そこへ、後ろの席から佐伯翔太が顔を出した。
「おい黒瀬。天宮に普通の距離感を教えてるってマジ?」
「勝手に先生にされた」
「お前、責任重大だぞ。下手したら将来、天宮の恋愛倫理観がお前基準になる」
「すでに手遅れみたいな言い方するな」
「まだ間に合うと思うか?」
俺はリカを見た。
リカは俺の視線に気づいて、にこっと笑う。
「悠真基準なら安心じゃん」
「ほら見ろ」
「翔太、そういう時だけ正論を言うな」
「俺、友人として警告してるだけだからな」
翔太は机に頬杖をついた。
「で、今日の天宮さんは何点なんだ?」
「何点って何」
「昨日、保健室イベントで点数つけてただろ。六十点とか七十点とか」
「イベントって言うな」
レイナが興味津々で身を乗り出した。
「え、何それ。リカ、採点されてるの?」
「うん。悠真に」
「どういう関係?」
「幼なじみ」
「幼なじみって採点制度あるんだっけ?」
「うちらにはある」
「作るな」
俺がツッコむと、リカはなぜか嬉しそうに笑った。
レイナは俺とリカを交互に見て、少し呆れたように言う。
「リカって、黒瀬くん絡むと本当に楽しそうだよね」
「そう?」
「うん。なんか顔が違う」
「どんな?」
「普段はギャル。黒瀬くん相手だと、ギャルの皮をかぶった重たい何か」
「レイナ?」
「ごめん、でも褒めてる」
「どこが?」
「一途って意味」
リカは少しだけ頬を赤くした。
それをごまかすように、俺の机の上に置いてあった消しゴムを指でつつく。
「別に、そんな重くないし」
「昨日、黒瀬くんに帰宅連絡させてなかった?」
「それは心配だから」
「一昨日、位置共有アプリ入れようとしてなかった?」
「それも心配だから」
「ほら重いじゃん」
「心配と重いは違う」
俺と翔太とレイナは、同時に黙った。
リカが不満そうに眉を寄せる。
「なに、その沈黙」
「いや」
「別に」
「考え方には個人差があるなって」
「佐伯くん、それ一番傷つくやつ」
リカはむっとしながらも、本気で怒ってはいないようだった。
その顔を見て、レイナがふっと柔らかく笑う。
「でもまあ、リカが楽しそうならいいけどさ。黒瀬くん、ちゃんと嫌な時は嫌って言ってあげてね」
「俺?」
「うん。リカ、変なとこで察し悪いから」
「レイナ、今日ちょいちょい刺してこない?」
「親友の愛だよ」
「痛い愛だ」
リカはそう言って笑った。
俺は少しだけレイナを見直した。
リカには、ちゃんと友達がいる。
それは当たり前のことのようで、俺には少し安心できることだった。リカは俺に関することになると異様に重いが、学校全体で浮いているわけではない。友達に茶化され、注意され、笑い合っている。
普通の高校生としてのリカも、ちゃんといる。
問題は、その普通のリカが俺の前だと時々どこかへ行くことだ。
*
昼休み。
俺は翔太と一緒に弁当を食べていた。
リカはレイナたちと少し離れた席で購買のパンを食べている。明るい笑い声が聞こえる。リカが両手を使って何かを説明していて、周囲の女子たちが笑っていた。
ああして見ると、本当に普通のギャルだ。
いや、普通より少し目立つ。可愛いし、明るいし、空気を持っていくタイプだ。
翔太が卵焼きを口に入れながら言った。
「なあ、黒瀬」
「なんだ」
「お前、天宮と付き合ってないんだよな?」
「付き合ってない」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあ、あれは何?」
翔太が箸でリカのほうを示す。
ちょうどその時、リカがこちらを見た。目が合う。リカは一瞬で笑顔になり、小さく手を振ってきた。
俺は反射的に軽く手を上げ返した。
リカは満足そうにして、また友達との会話に戻る。
翔太が半目になった。
「犬の散歩中に飼い主を確認する犬じゃん」
「その例え、さっきも出たぞ」
「出るだろ。あまりにもそれだから」
「俺は飼い主じゃない」
「じゃあ何なんだよ」
「幼なじみ」
「幼なじみって便利な言葉だな」
翔太はため息をついた。
「天宮、普通にモテるぞ」
「だろうな」
「だろうなって、お前な」
「俺に言われても」
「男子から告られたりしてるの知ってる?」
「……知らない」
「だろうな。たぶんお前に言ってないからな」
俺は箸を止めた。
翔太は周囲をちらっと見て、少し声を落とす。
「去年もあったらしいぞ。隣のクラスのやつ。あと、三年の先輩からも連絡先聞かれてたとか」
「詳しいな」
「俺が詳しいんじゃなくて、クラスの噂が普通に流れてるだけ。お前がそういう話に鈍いだけ」
「別に鈍いわけじゃ」
「鈍いだろ。天宮がどれだけ分かりやすくお前のこと好きでも、まだ幼なじみって言い続けてるし」
俺は何も言えなかった。
リカが俺を好きだと言う。
それは、もう疑いようがない。
本人が言ってくる。朝の通学路でも、教室でも、メッセージでも、さらっと言ってくる。
けれど、俺はそれをどう受け止めればいいのか分からない。
リカの好きは、普通の好きとは少し違う気がする。
いや、そもそも普通の好きとは何なのか、俺にもよく分かっていない。
「……リカがモテるのは、分かる」
「おう」
「でも、あいつ、そういうのどうしてるんだ?」
翔太は微妙な顔をした。
「聞きたい?」
「その前置きは何だ」
「いや、俺が聞いた話だと、すごい丁寧に断るらしい」
「普通じゃないか」
「ただ、理由がな」
「理由?」
「『好きな人がいるので』って言うらしい」
俺は弁当の白米を見た。
急に味がしなくなった。
「……そうか」
「しかも、聞かれたら普通に『悠真』って答えるらしい」
「待て」
「お前、知らなかったのか」
「知らない」
「まあ、天宮らしいっちゃらしい」
俺は頭を抱えた。
「なんで俺の知らないところで俺の名前が出てるんだ」
「そこ、怒るとこなのか?」
「怒るというか、困るだろ」
「でも嘘じゃない」
「そういう問題じゃない」
翔太は弁当箱を閉じながら、妙に真面目な顔をした。
「黒瀬」
「なんだよ」
「天宮、ヤバいとこあるけどさ」
「あるな」
「即答」
「否定できない」
「でも、悪いやつじゃないだろ」
「それは分かってる」
「じゃあ、ちゃんと考えてやれよ」
思っていたより真面目な声だった。
俺は翔太を見る。
翔太は少し気まずそうに目を逸らした。
「いや、別に付き合えとかそういう話じゃなくてな。なんか、お前ら見てると、天宮ばっかり重いみたいに見えるけど、お前もお前で天宮に甘えてるとこあるだろ」
「俺が?」
「あるよ。天宮なら分かってくれるとか、天宮ならいつも隣にいるとか、そういうの」
俺は黙った。
翔太は続ける。
「天宮が距離感バグってるのは事実。でも、お前がその距離を当たり前にしてるのも、ちょっとあるんじゃね?」
反論しようとして、できなかった。
リカが朝、曲がり角にいる。
俺の寝不足に気づく。
体調を心配する。
放課後、何かと理由をつけて話しかけてくる。
それを俺は、面倒だと思いながら、当たり前にも思っていた。
もし明日からリカが来なかったら。
もし休み時間に話しかけてこなかったら。
もし俺の変化に気づかなくなったら。
たぶん、俺は困る。
かなり、困る。
「……嫌なこと言うな」
「友人なので」
「便利な言葉にするな」
「さっきの仕返し」
翔太は笑った。
その時、リカがこちらへ歩いてきた。
片手に小さなチョコ菓子を持っている。
「悠真、これ食べる?」
「さっき弁当食った」
「デザート」
「甘いものは別腹理論か」
「そう。あと、悠真さっきから難しい顔してるから糖分いる」
「また顔で判断したのか」
「うん。眉間のしわ、いつもより深い」
翔太が小さく吹き出した。
俺はチョコ菓子を受け取るか迷った。
受け取れば、リカは喜ぶ。
受け取らなければ、たぶん少ししょんぼりする。
そんなことを考えている時点で、俺はたぶん翔太の言う通りなのだろう。
「……一個だけ」
「うん」
リカは嬉しそうに袋を開け、俺の手のひらに一つ落とした。
その距離がまた近い。
指先がかすかに触れる。
リカは平然としていたが、俺だけが少し動揺した。
すると、リカがじっと俺の顔を見る。
「今、照れた?」
「照れてない」
「じゃあ何?」
「チョコが冷たかった」
「手のひらに置いただけで?」
「そういうこともある」
「ないよ」
リカは楽しそうに笑った。
翔太がぼそっと言う。
「これで付き合ってないの、逆に怖いな」
「佐伯くん、なんか言った?」
「言ってません」
リカが俺の隣の席に座った。
そこは今、誰も使っていない席だ。いや、正確には持ち主が昼休みに友達のところへ行っているだけなので、空席ではない。
「勝手に座るな」
「すぐ立つし」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ悠真の机の横に立ってる?」
「それも近い」
「難しい」
リカは本当に困ったように言った。
俺はため息をつく。
「普通に自分の席に戻ればいいだろ」
「それは遠い」
「遠くない。教室の中だ」
「距離じゃなくて気持ちの話」
翔太が口元を押さえた。
「黒瀬、今のはわりと強いぞ」
「実況するな」
リカはきょとんとしている。
自分の言葉がどう聞こえたのか、あまり分かっていないらしい。
こういうところが本当に厄介だ。
天然で重い。
計算で言っているならまだ対処できる。いや、できないかもしれないが、少なくとも怒ることはできる。
しかしリカは、時々本気でこういうことを言う。
「リカ」
「ん?」
「そういうの、他の男子には言うなよ」
「言わないよ」
即答だった。
「なんで?」
「悠真じゃないから」
「……そうか」
「うん」
リカは当たり前のように頷いた。
翔太が小声で言う。
「黒瀬、今ちょっと嬉しそうだった」
「嬉しそうじゃない」
「顔」
「見なくていい」
「天宮、今の黒瀬、何点?」
リカは俺の顔をじっと見た。
「八十五点」
「何の点数だよ」
「照れ隠し点」
「採点基準を増やすな」
*
午後の授業が終わり、放課後になった。
掃除当番ではなかった俺は、荷物をまとめて帰ろうとした。リカはレイナたちと何か話している。今日はこのまま帰れるかもしれない。
そう思ったのが甘かった。
「悠真、帰る?」
リカが当然のように隣へ来た。
「帰る」
「じゃあ一緒に帰ろ」
「レイナたちは?」
「今日は駅のほう寄るって。あたしは悠真のほう」
「俺は方角なのか?」
「目的地?」
「もっと悪い」
レイナが後ろから手を振った。
「黒瀬くん、リカお願いねー」
「俺は保護者じゃない」
「保護対象は黒瀬くんのほうじゃない?」
レイナが笑う。
リカは不満そうに言った。
「悠真はあたしが守る側」
「その発言が保護対象っぽいんだよね」
「レイナ、今日ずっと辛口」
「親友なので」
「みんな便利に使いすぎでしょ、その言葉」
そんなやり取りをしながら、俺とリカは教室を出た。
廊下には放課後特有のざわめきが満ちている。部活へ向かう生徒。友達と寄り道の相談をする女子。プリントを抱えて職員室へ走る男子。窓の外には、夕方に近い光が差していた。
リカは俺の少し横を歩く。
朝よりは近い。昼よりは少し遠い。
たぶん、本人なりに調整している。
「距離、これくらい?」
リカが聞いてきた。
「何が」
「歩く距離」
「……まあ、普通じゃないか」
「ほんと?」
「たぶん」
「やった」
リカは小さくガッツポーズした。
こんなことで喜ぶのか。
いや、リカにとっては大事なのだろう。普通の距離感。相手が嫌がらない距離。近づきたい気持ちと、近づきすぎないための線。
リカは今、それを手探りで学んでいる。
そう思うと、少しだけ胸が柔らかくなる。
「悠真」
「ん?」
「今日、あたし近すぎた?」
「何回か」
「何回?」
「数えてない」
「じゃあ、三回くらい?」
「なんで具体的なんだ」
「改善には数字が必要かなって」
「恋愛を業務改善みたいに扱うな」
「でも数字あると分かりやすいじゃん」
「じゃあ言うけど、机に乗り出してきたのは近かった」
「うん」
「肩に手を置いたのも近い」
「うん」
「隣の席に勝手に座ったのも近い」
「うん」
リカは素直に頷いている。
なんだか先生になった気分だ。
「でも」
リカが俺を見た。
「チョコ渡した時は?」
「……あれは別に」
「別に?」
「普通だろ」
「ふーん」
リカがにやっと笑った。
まずい。
今のは余計なことを言った気がする。
「悠真、手が触れるのは普通なんだ」
「違う。そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味?」
「文脈による」
「手が触れる文脈」
「復唱するな」
「じゃあ、今は?」
リカがゆっくりと手を伸ばしてきた。
俺は一歩横へずれた。
「試すな」
「避けた」
「避けるだろ」
「ちぇ」
「ちぇじゃない」
リカは笑っていた。
いつもの明るい笑顔だ。
でも、その笑顔の奥に、少しだけ安心が見えた気がした。
俺が避けても、拒絶ではない。
俺が注意しても、嫌いになったわけではない。
そういうことを、リカは少しずつ確認しているのかもしれない。
校門を出ると、夕方の風が髪を揺らした。
リカが空を見上げる。
「ねえ、悠真」
「今度は何だ」
「今日、普通の幼なじみっぽかった?」
「何だその質問」
「大事」
「普通の幼なじみは、自分が普通の幼なじみか確認しない」
「じゃあ、あたしは?」
「……普通ではない」
「知ってる」
「でも」
俺は少しだけ言葉を探した。
リカは黙って待っていた。
こういう時、前ならたぶん急かしてきた。俺の表情を読んで、勝手に結論を出して、先回りしてきた。
でも今は待っている。
だから、俺もちゃんと答えようと思った。
「でも、今日くらいなら悪くない」
リカの目が少し大きくなった。
「悪くない?」
「ああ」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「ほんとに?」
「ほんとに」
リカは少し黙ったあと、ぱっと笑った。
「そっか」
「そんなに嬉しいか?」
「嬉しいよ。悠真に悪くないって言われた」
「基準低くないか」
「悠真基準は高いんだよ」
「俺、そんな厳しいか?」
「うん。あたしのGPS案、即却下したし」
「それは誰でも却下する」
「感染経路ノートも怒ったし」
「あれも誰でも怒る」
「でも、チョコは受け取った」
「それは普通だろ」
「じゃあ、普通を増やしていけばいいんだ」
リカはそう言って、少し前を歩いた。
金色の髪が夕方の光を受けて、やわらかく光る。
「悠真が嫌じゃない普通を、ちょっとずつ覚える」
その声は、いつもの軽い調子ではなかった。
俺はリカの横顔を見た。
リカは笑っている。けれど、それはふざけた笑いではない。
俺は、何となく胸の奥が落ち着かなくなった。
「……無理すんなよ」
「え?」
「普通になろうとして、変に無理するなってこと」
「でも、普通にならないと悠真困るじゃん」
「全部普通じゃなくていい」
リカが立ち止まった。
俺も少し遅れて足を止める。
「え?」
「いや、だから……全部は普通じゃなくていいって言った」
「どういう意味?」
「リカが全部普通になったら、それはそれで変だろ」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺もよく分からない」
リカはぽかんとしていた。
それから、ゆっくり笑った。
「悠真ってさ」
「うん」
「たまに、あたしより変なこと言うよね」
「心外だ」
「でも、嬉しい」
リカは歩き出した。
さっきより、ほんの少しだけ近い距離で。
俺はそれを注意しなかった。
たぶん、今日くらいなら悪くない。
*
家に帰ってから、俺は机に鞄を置いた。
スマホを見る。
リカからのメッセージが来ていた。
『今日の距離感、何点?』
俺は少し笑った。
点数制が定着しつつある。
よくない。
よくないが、返信しないと明日聞かれる。
俺は少し考えてから送った。
『八十点』
すぐに既読。
『高い!』
『減点理由は?』
自分から聞いてくるのか。
俺は返信する。
『机に乗り出しすぎ』
『肩に手を置いた』
『勝手に隣の席に座った』
しばらくして返ってきた。
『加点理由は?』
俺は指を止めた。
加点理由。
そんなものを聞かれると思っていなかった。
少し考える。
そして、送った。
『待てたところ』
リカからの返信は、いつもより少し遅かった。
『何を?』
『俺の返事』
『急かさなかっただろ』
今度は、すぐに既読がついた。
けれど、返信はしばらく来なかった。
数分後。
『そっか』
短い返信。
そのあとに、もう一通。
『そういうところ見てくれるの、ずるい』
俺はスマホを見つめた。
ずるいのはどっちだ。
そんな言葉を打ちかけて、やめる。
代わりに送った。
『明日も普通に来るんだろ』
返信はすぐだった。
『行く』
『でも距離感は八十五点目指す』
俺は笑った。
『百点目指せ』
『百点取ったらご褒美ある?』
『調子に乗るな』
『じゃあ九十点でいい』
『下げるな』
『おやすみ、悠真』
唐突に会話が終わった。
俺は少しだけ画面を見つめる。
それから、返信した。
『おやすみ』
送信して、スマホを机に置く。
今日のリカは、確かに近かった。
でも、近づきすぎたら聞いてきた。待っていた。確認していた。少しずつ、自分の距離感を直そうとしていた。
そういうリカを見ていると、俺は困る。
怖いだけなら、簡単に突き放せる。
重いだけなら、逃げればいい。
でも、リカは怖くて、重くて、それでいてちゃんと人間らしく悩んでいる。
だから俺は、明日もきっと通学路の曲がり角で足を止める。
金色の髪を揺らして待っているリカに、いつものように言うのだ。
おはよう、と。
そしてリカは、俺の顔を見てたぶんこう言う。
昨日、ちゃんと寝た?
その距離感は、たぶんまだ少し近すぎる。
けれど今日の俺は、それを完全に嫌だとは思えなかった。




