第14話 リカはまだ、家族になれない
その日の朝、リカはいつもより少しだけ静かだった。
とはいえ、天宮リカ基準での「静か」である。
普通の人間から見れば、十分に話している。
「悠真、顔色は普通。昨日は寝た?」
「寝た」
「何時?」
「十二時前」
「スマホは?」
「少し」
「何見てたかは聞かない。えらい?」
「えらい」
「朝ごはんは?」
「食べた」
「何?」
「食パン」
「ヨーグルトは?」
「今日はない」
「卵は?」
「ない」
「野菜は?」
「朝から尋問が始まったな」
「あ、ごめん。軽めにする予定だった」
「リカ基準では軽めなんだろ」
「うん。今のは軽め寄り」
リカはそう言ってから、少しだけ笑った。
ただ、その笑顔が普段ほど弾まない。
俺には分かる。
リカはまだ、美緒さんのことを考えている。
父さんが再婚するかもしれないこと。
相手に娘がいること。
その娘が、俺の義妹になるかもしれないこと。
昨日、リカはずいぶん頑張っていた。
不安を言葉にした。
美緒さんを敵扱いしないようにした。
検索したいけどしない、と自分で止まった。
「家族って強い」と何度も言いながら、それでも俺の話を聞こうとしていた。
だが、不安が消えたわけではない。
むしろ、夜を越えて少し輪郭がはっきりしたのかもしれない。
通学路の途中、リカはふと口を開いた。
「悠真」
「うん」
「昨日、考えたんだけど」
「何を」
「幼なじみって、何なんだろうね」
朝から重い。
いや、リカが静かな時点で、こういう話になる予感はしていた。
「急に哲学か」
「哲学じゃなくて、関係性の確認」
「それもほぼ哲学だろ」
「幼なじみって、昔から一緒にいる人でしょ」
「まあ」
「でも、別に法律で決まってるわけじゃない」
「そうだな」
「家族は、戸籍とか、同居とか、いろいろあるじゃん」
「急に現実的な話になったな」
「だって強いもん」
またそれだ。
リカは鞄の紐を握りしめた。
「家族って、名前が変わることもある。家が同じになることもある。紹介する時に『家族です』って言える。何かあったら連絡が行く。学校の書類にも書ける」
「そうだな」
「幼なじみは?」
「幼なじみは……幼なじみだろ」
「ほら、弱い」
「弱いか?」
「弱いよ。だって説明がふわっとしてる」
「ふわっとしてるからこそ強いところもあるだろ」
リカがこちらを見た。
「どういうこと?」
「書類とか戸籍に書かなくても、小さい頃からの時間は消えない」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
リカは目を丸くしていた。
「悠真」
「何だ」
「今日も優しい」
「そういうつもりで言ったんじゃない」
「でも優しい」
「調子に乗るなよ」
「乗りたいけど、今日はちょっと我慢する」
「偉い」
「また偉いって言った」
リカは少しだけ笑った。
だが、すぐに視線を落とす。
「でも、時間って見えないじゃん」
「見えないな」
「家族は見える。家の中にいる。食卓にいる。靴箱に靴がある。洗面所に歯ブラシがある。名前が同じになるかもしれない」
「リカ、昨日から生活感で想像しすぎじゃないか」
「だって、そこが怖いんだもん」
その言い方は、妙に素直だった。
「美緒さんが悠真の家に来たらさ、玄関に女の子の靴が増えるんだよ」
「まだ決まってない」
「分かってる。でも、もし増えたら、あたしが遊びに行った時に見るかもしれない」
「うん」
「歯ブラシも増えるかもしれない」
「うん」
「冷蔵庫に、美緒さんの好きな飲み物が入るかもしれない」
「うん」
「リビングに、美緒さんの置いたクッションとか、マグカップとか、そういうのが増えるかもしれない」
「……うん」
「そういうの、強い」
リカは小さく言った。
俺は返事に困った。
リカの言う「強い」は、単なるラブコメ的な強さではない。
もっと生活に根ざした強さだ。
人が家にいるということ。
その人の物が置かれるということ。
日常の風景の中に、その人の存在が混ざるということ。
それは確かに、幼なじみにはない近さかもしれない。
「リカ」
「うん」
「まだ美緒さんのこと、何も知らないんだ」
「うん」
「だから、今そこまで想像しても、たぶん疲れるだけだぞ」
「分かってる」
「分かってるけど止まらない?」
「うん」
リカは正直に頷いた。
「昨日から、頭の中で勝手に美緒さんの生活感が増えてる」
「生活感が増えるって表現、怖いな」
「あたしも怖い」
「自分でもか」
「うん。まだ会ってもない子なのに、勝手に想像して勝手に不安になってる。よくないのは分かってる」
「だったら」
「でも、止まらない」
リカは俺を見た。
「だから、聞いてる。勝手に調べるんじゃなくて、悠真に聞いてる」
その言葉で、俺は少しだけ黙った。
そうだ。
リカは今、ちゃんと聞いている。
不安を一人で膨らませて暴走するのではなく、俺に言葉を投げている。
それは、かなり大きな前進だ。
「そうだな」
「うん」
「聞いてくれてるのは、助かる」
リカの顔が少しだけ明るくなった。
「ほんと?」
「ああ。いきなり美緒さんの学校を調べ始めるよりは、ずっといい」
「調べたいけどしない」
「偉い」
「今日も偉い」
リカは胸に手を当てて、少しだけ息を吐いた。
「悠真に偉いって言われると、ちょっと持ち直す」
「そんな効果あるのか」
「ある。栄養剤みたい」
「俺の言葉を栄養剤にするな」
「副作用ありそう」
「何の」
「もっと欲しくなる」
「やめろ。危ない薬みたいに言うな」
リカはようやく、いつもの調子で笑った。
その笑顔を見て、俺も少し安心した。
*
学校では、リカはかなり頑張っていた。
美緒さんの話を、一時間に一回までに抑えた。
いや、十分多い。
十分多いのだが、リカにしては抑えている。
一時間目のあと。
「悠真、美緒さんって部活やってると思う?」
「知らない」
「だよね。聞きすぎ?」
「今はまだセーフ」
「じゃあ止まる」
二時間目のあと。
「美緒さんが料理得意だったら?」
「知らない」
「踏み込みすぎ?」
「やや飛躍」
「止まる」
三時間目のあと。
「美緒さんが『兄さん』って呼んだ時の悠真の顔、想像したら不安になった」
「まだ呼ばれてない」
「うん。止まる」
四時間目のあと。
「美緒さんのこと、美緒さんって呼んでる悠真にちょっと嫉妬した」
「俺は父さんから聞いた名前を言ってるだけだ」
「分かってる。これはあたしが悪い。止まる」
昼休みになる頃には、翔太が俺に言った。
「天宮、今日ずっと自分にブレーキかけてるな」
「そうだな」
「えらいけど、見てて忙しい」
「俺もそう思う」
「でも、前なら勝手にアクセル踏んで崖まで行ってた可能性あるだろ」
「否定できない」
向かいの席でパンを食べていたリカが、不満そうにこちらを見た。
「聞こえてる」
「聞こえるように言った」
翔太は悪びれなかった。
「天宮、今日けっこう偉いぞ。暴走しかけるたびに自分で止まってる」
「佐伯くんに褒められても、そこそこ嬉しい」
「そこそこかよ」
「悠真ほどじゃない」
「はいはい。ごちそうさま」
「何も出してない」
「空気が甘いんだよ」
俺は弁当を開けた。
今日は卵焼きが入っていた。
リカの目が、いつものようにそこへ吸い寄せられる。
それに気づいたリカは、すぐに目を逸らした。
「見てない」
「見てた」
「でも、今日は自分から欲しいって言うのは図々しいかなって」
「何で」
「昨日ももらったし。あたし、不安を理由に悠真から安心をもらいすぎかなって」
翔太が箸を止めた。
俺も少し黙った。
リカは真面目な顔をしていた。
「卵焼き一つでそこまで考えるのか」
「今日は考えちゃう日」
「不安が多いリカか」
「うん。不安が多いリカ、二日目」
俺は卵焼きを一切れ取り、リカの弁当箱の端に置いた。
リカが目を丸くする。
「え」
「欲しいんだろ」
「でも」
「一切れくらいならいい」
「悠真」
「ただし、卵焼きで幼なじみの有効期限を確認するのは禁止」
「……それ、しようと思ってた」
「やっぱりか」
「だって安心するから」
「卵焼きが?」
「うん。悠真がくれるものだから」
リカは卵焼きを見つめた。
その表情が妙に大事そうで、俺は少し照れくさくなった。
「食べないのか」
「食べる。大事に食べる」
「普通に食べろ」
「普通寄りに大事に食べる」
「ややこしい」
リカは卵焼きを口に入れた。
少しだけ笑う。
「甘い」
「今日は甘い日らしい」
「おいしい」
「そうか」
「悠真、ありがとう」
「卵焼き一切れだぞ」
「卵焼きの形をした安心だから」
「昨日も似たようなこと言ってたな」
「本当にそうだから」
翔太が頬杖をつきながら言った。
「黒瀬の卵焼き、急に象徴性を持ち始めたな」
「やめろ。食べにくくなる」
「そのうちタイトルになるぞ。『卵焼きの形をした安心』」
「ならない」
リカは小さく笑った。
「ちょっといいタイトル」
「よくない」
「でも、今日のあたしには合ってる」
その言葉に、俺は少しだけ黙った。
リカは冗談めかして言ったが、たぶん本気も混ざっている。
今日のリカは、何か小さな安心を探している。
朝の曲がり角。
俺の返事。
卵焼き。
いつもの距離。
いつもの会話。
美緒さんという未知の存在が現れたことで、リカは今まで当たり前にしていたものを一つずつ確認しているのだ。
それが少し重くて。
少し、可愛い。
*
放課後、リカは俺に聞いた。
「今日、一緒に帰っていい?」
「いい」
「寄り道は?」
「今日はどうする?」
「……少しだけ、話したい」
「じゃあ、公園か?」
「うん。昨日とは別の、小さいほう」
学校から少し離れた住宅街の中に、小さな公園がある。
遊具は古い鉄棒とベンチくらい。人はあまり来ない。前にリカと重い話をした公園よりも、もっと静かな場所だった。
俺たちはそこで並んで座った。
夕方の風が少し冷たい。
リカは鞄を膝に置き、しばらく何も言わなかった。
俺も急かさなかった。
こういう時、リカは自分の中で言葉を探している。
前なら俺が黙っている間に、勝手に話し始めて、勝手に不安を広げて、勝手に結論へ突っ走っていた。
今は、少し違う。
ちゃんと、言葉を選んでいる。
「悠真」
「うん」
「あたし、変なこと言うかも」
「今さらだな」
「そうだけど」
「聞く」
リカは小さく頷いた。
そして、少し笑ってから言った。
「じゃあ、あたしも家族になる?」
その言い方は、冗談っぽかった。
明るくて、軽くて、いつものリカみたいだった。
でも、言ったあとにリカがすぐ目を伏せたので、俺は何も返せなくなった。
ただの冗談ではない。
たぶん、自分でも冗談にしたかった本音だ。
「リカ」
「ごめん。今のなし」
「なしにするには重いだろ」
「重いよね。分かってる」
リカは苦笑した。
「ギャルが言う冗談じゃない」
「ギャルにもいろいろあるだろ」
「家族になりたいギャル?」
「ジャンルが狭い」
「でも、ちょっと思った」
リカは自分の指先を見つめた。
「美緒さんは、再婚したら家族になれる。名前が変わるかもしれない。同じ家に入れるかもしれない。悠真の生活の中に、当たり前みたいに入れるかもしれない」
「うん」
「あたしは、幼なじみ」
「うん」
「好きって言っても、幼なじみ」
「……うん」
「朝迎えに行っても、放課後一緒に帰っても、休日に待ち合わせしても、家のドアの内側には入れない」
朝と同じ話だった。
でも今は、もっと深いところから出ているように聞こえた。
「だから、思っちゃった。あたしも家族になれたら、強いのかなって」
リカは笑った。
その笑顔は、いつもの明るい笑顔ではなかった。
「怖いね、これ」
「怖いというか」
「重い?」
「重い」
「だよね」
リカは小さく息を吐いた。
「でも、今日は言うって決めた。勝手に抱えて変な方向に行く前に、悠真に言う」
「それは偉い」
「偉い?」
「ああ」
「今のも?」
「今のも」
リカは少しだけ驚いた顔をした。
「家族になりたいって、重すぎるのに?」
「重すぎるけど、言わないで変な行動されるよりはいい」
「変な行動って?」
「婚姻届を持ってくるとか」
「さすがにまだしない」
「まだ?」
「今のなし」
「消えないぞ」
リカは顔を赤くして、両手で口元を押さえた。
「違う。そういう意味じゃない。いや、そういう意味もゼロではないけど、今はそうじゃなくて」
「落ち着け」
「落ち着いてる」
「落ち着いてない」
「うん、落ち着いてない」
リカは素直に認めた。
俺は少し笑ってしまった。
重い会話なのに、リカはやっぱりどこかおかしい。
でも、そのおかしさに少し救われる。
「リカ」
「うん」
「家族には、急にはなれない」
「うん」
「というか、俺たちは高校生だ」
「うん」
「婚姻届とか考えるな」
「うん」
「本当に考えるなよ」
「……努力する」
「そこは即答しろ」
「即答したかったけど、嘘になるかなって」
「正直すぎる」
リカは照れたように目を逸らした。
「でも、今すぐどうこうって話じゃない。あたし、ただ、悠真の隣にいる理由がほしかったのかも」
「理由?」
「うん」
リカは膝の上の鞄をぎゅっと握った。
「幼なじみだから隣にいる。好きだから隣にいる。心配だから隣にいる。いろいろ理由はあるけど、どれも不安になる時がある」
「うん」
「幼なじみは、いつか離れるかもしれない。好きは、悠真が同じじゃなかったら片方だけかもしれない。心配は、やりすぎたら迷惑になる」
「……」
「だから、もっと確かな理由がほしくなった」
リカの声は小さかった。
「家族なら、隣にいてもおかしくないのかなって」
俺は何も言えなかった。
それは、リカの弱さだった。
いつも俺を見ているリカ。
俺の顔色を読んで、歩幅を読んで、寝不足を当てて、位置共有を求めて、心配して、怒って、重い好きをぶつけてくるリカ。
そのリカが今、自分が隣にいる理由を探している。
そんなもの、俺からすれば今さらだ。
リカはずっと隣にいた。
朝の曲がり角にいて、教室にいて、帰り道にいて、メッセージの向こうにいた。
それが当たり前になっていた。
でも、リカにとっては当たり前ではなかったのかもしれない。
「リカ」
「うん」
「理由がないと、隣にいちゃだめなのか?」
リカは顔を上げた。
「え?」
「幼なじみだからでも、好きだからでも、心配だからでもいいけどさ。別に、一つの正しい理由がないと隣にいちゃいけないわけじゃないだろ」
「……」
「俺が嫌なら言う。近すぎたら言う。重すぎたら言う。怖かったら言う」
「うん」
「でも、今ここにいるのは嫌じゃない」
リカの目が揺れた。
「ほんと?」
「ああ」
「家族じゃなくても?」
「家族じゃなくても」
「幼なじみでも?」
「幼なじみでも」
「重くても?」
「条件つきで」
「条件」
「聞く。止まる。俺のためって言う前に俺に聞く。怖くなりそうなら一回止まる」
「……うん」
「それなら、隣にいていい」
リカは黙った。
そして、ゆっくりと目を伏せた。
泣くかと思った。
でも、リカは泣かなかった。
代わりに、少しだけ笑った。
「悠真、今日もずるい」
「便利な感想になってるな」
「ずるいよ。あたしが家族になれないって落ち込んでる時に、家族じゃなくても隣にいていいって言う」
「それが答えだからな」
「好きになっちゃうじゃん」
「もうなってるだろ」
「あ、そうだった」
リカは少しだけ笑った。
ようやくいつものリカに戻る。
でも、その笑顔の奥には、まだ少し不安が残っていた。
完全に消えるわけではない。
きっと、美緒さんと会うまで。
いや、会ってからもしばらくは。
リカは不安なままだろう。
「悠真」
「うん」
「もし、美緒さんがいい子だったらどうしよう」
「いい子ならいいだろ」
「そうなんだけど」
「悪い子のほうが困る」
「それはそう。でも、いい子だったら嫌いになれない」
「嫌いになる前提で考えるな」
「分かってる。違う。嫌いになりたいわけじゃない。むしろ、いい子だったらちゃんと仲良くしなきゃって思う。でも、仲良くしたら、あたしの不安が消えるかっていうと、多分消えない」
「だろうな」
「美緒さんが悪い子でも不安。いい子でも不安。可愛くても不安。可愛くなくても多分不安」
「結局不安なんだな」
「うん」
リカは苦笑した。
「これ、どうしたらいいの?」
「少しずつ慣れるしかないんじゃないか」
「悠真も?」
「俺も」
「悠真も不安?」
「不安というか、戸惑ってる」
「そっか」
「父さんが再婚するのは嫌じゃない。でも、家族が増えるってどういうことか分からない」
「うん」
「美緒さんがどういう人かも分からない」
「うん」
「だから、俺もこれからだ」
リカは静かに聞いていた。
そして言った。
「悠真がそう言ってくれると、少し安心する」
「何が?」
「悠真も分からないんだって思えるから」
「俺はだいたい分かってないぞ」
「それはそれで心配」
「おい」
リカは少し笑った。
「でも、よかった。悠真が一人で全部受け入れてて、あたしだけ不安なのかと思ってた」
「そんなに器用じゃない」
「うん。知ってる」
「知ってるのか」
「悠真、優しいけど、そういうの不器用」
「言われたくない」
「お互い様」
リカはそう言って、ベンチの背にもたれた。
夕方の空が、少しずつ色を変えている。
俺たちはしばらく黙っていた。
沈黙は重かった。
でも、悪い重さではなかった。
*
帰り道、リカは少しだけ落ち着いていた。
家族になりたい。
隣にいる理由がほしい。
その言葉を口にしたからか、朝よりも不安が形になったように見えた。
「悠真」
「うん」
「今日、何点?」
「自分から聞くと思った」
「聞くよ。今日はかなり重かったから」
「そうだな」
「婚姻届発言は減点?」
「大幅減点」
「まだ持ってきてないのに」
「まだ、という言い方も減点」
「うっ」
「でも、ちゃんと言ったのは加点」
「家族になりたいって?」
「ああ」
「引かなかった?」
「引いた」
「引いたんだ」
「でも、言ってくれてよかった」
リカは少しだけ笑った。
「今日もそれ」
「事実だからな」
「じゃあ、何点?」
「八十九点」
「高い」
「かなり重かったけど、ちゃんと聞けた。止まれた。勝手に調べなかった。家族への不安を言葉にした」
「婚姻届は?」
「減点」
「それでも八十九?」
「それでも八十九」
リカは嬉しそうに、でも少しだけ困ったように笑った。
「九十には届かないんだ」
「婚姻届発言がな」
「もう言わない」
「本当に?」
「……しばらく言わない」
「しばらくか」
「嘘はつきたくない」
「正直でよろしい」
分かれ道で、リカは立ち止まった。
「明日も、いつもの場所?」
「ああ」
「家族じゃなくても?」
「家族じゃなくても」
「幼なじみでも?」
「幼なじみでも」
「重くても?」
「条件つきで」
「聞く。止まる。悠真のためって言う前に悠真に聞く。怖くなりそうなら一回止まる」
「よし」
「先生」
「問題児」
「八十九点の問題児」
「自慢するな」
リカは笑って手を振った。
今日は三度、振り返った。
一度目は、俺がまだいるか。
二度目は、俺が手を振るか。
三度目は、たぶん、家族じゃなくても隣にいていいという言葉を確認するため。
俺は三度とも手を上げた。
リカは、少しだけ安心した顔で帰っていった。
*
夜。
リカからメッセージが来た。
『今日、家族になりたいって言ってごめん』
俺は少し考えてから返信した。
『重かった』
すぐ既読。
続けて送る。
『でも、言ってくれてよかった』
少し間が空いた。
『悠真、それずるい』
『今日何回目だ』
『数えてないけど、いっぱい』
『明日は言う前に深呼吸しろ』
『家族になりたいって?』
『それも含めて』
『分かった』
少しして、リカから次のメッセージが来た。
『でも、隣にいていいって言われて、すごく安心した』
『条件つきだけどな』
『条件つきでも嬉しい』
『ならよかった』
『美緒さんのこと、まだ不安』
『知ってる』
『でも、調べない』
『偉い』
『明日も不安が多いリカかもしれない』
『ほどほどにな』
『ほどほどに不安が多いリカで行く』
『またややこしい表現を』
『おやすみ、悠真』
『おやすみ』
スマホを置いて、俺は引き出しを開けた。
リカの謝罪文兼改善計画書が入っている。
思えば、あれをもらったのはつい最近なのに、ずいぶん前のことのようにも感じる。
位置共有。
感染経路。
交友関係。
怒り方。
距離感。
そして今度は、家族。
俺たちの間には、次々に面倒な課題が出てくる。
そのたびにリカは重くなり、怖くなり、でも少しずつ聞くことを覚えている。
俺も、少しずつ答えることを覚えている。
家族じゃなくても、隣にいていい。
自分で言ったその言葉が、今さらになって胸の奥に残った。
リカはまだ、家族にはなれない。
でも、幼なじみではある。
それは、俺が思っているよりずっと大きなことなのかもしれない。




