第10話 休日、GPSなしで待ち合わせ
土曜日の朝、俺はスマホの画面を見つめていた。
時刻は九時二十六分。
待ち合わせは十時。
場所は駅前の時計台。
相手は天宮リカ。
ここまでなら、ただの休日の待ち合わせだ。
問題は、その待ち合わせをするにあたって、昨日の夜からリカがやけに静かだったことである。
いつもなら、前日の夜に細かい確認が入る。
『明日、何時に起きる?』
『朝ごはん食べる?』
『服、薄すぎない?』
『駅前、混むかも』
『雨降ったらどうする?』
『位置共有はしないけど、駅着いたら連絡して』
このくらいは平気で送ってくる。
だが昨日のリカは、違った。
『明日、十時に時計台で』
それだけ。
いや、そのあとに一通だけ来た。
『位置共有なしで待つ練習をします』
宣言だった。
待ち合わせというより、試験前の決意表明みたいだった。
俺はその時点で、少し不安になった。
そして今、もっと不安になっている。
リカが静かすぎる。
朝の体調確認もない。睡眠時間の質問もない。朝食を食べたかどうかも聞かれない。現在地はもちろん聞かれない。
あまりにも普通すぎて、逆に怖い。
「普通を目指してるんだから普通でいいはずなんだけどな……」
俺は一人で呟いた。
リカのせいで、俺の普通の基準もだいぶおかしくなっている気がする。
支度を終えて、家を出る。
服は無難にパーカーとジーンズ。リカと会うからといって、特別におしゃれをしたわけではない。
していない。
していない、はずだ。
ただ、クローゼットの前で五分ほど迷ったのは事実だった。
昨日の夜、リカから届いた最後のメッセージが頭に残っていたからだ。
『休日の悠真、ちょっと楽しみ』
たったそれだけ。
それだけなのに、妙に意識してしまった。
俺は玄関の鍵を閉め、駅へ向かった。
四月の土曜日は、平日の朝とは違う空気がある。制服姿の学生は少なく、家族連れや買い物に向かう人が多い。駅前に近づくにつれて、人の流れが増えていく。
スマホを見る。
九時五十二分。
まだリカから連絡はない。
俺は少しだけ足を速めた。
別に急いでいるわけではない。
遅刻はしていない。
ただ、リカを待たせると面倒なことになる……いや、今日はリカが待つ練習をしているのだった。
俺が遅れたら、それはもう練習というより試練である。
駅前の時計台が見えてきた。
その下に、リカはいた。
休日のリカは、制服姿の時よりもさらに目立つ。
淡い色のカーディガンに、短すぎないスカート。足元はスニーカー。髪はゆるく巻いていて、いつもより少し柔らかい印象だった。派手すぎないけれど、ちゃんと可愛い。いや、かなり可愛い。
本人に言うと調子に乗るので言わない。
リカは時計台の柱の横に立っていた。
スマホを両手で持っている。
だが、画面は見ていなかった。
まるで、見たら負けだとでも思っているように、スマホを握ったまま空を見上げている。
「リカ」
声をかけると、リカはびくっと肩を揺らした。
そして、こちらを見た瞬間、ぱっと顔が明るくなる。
「悠真!」
「おはよう」
「おはよう。来た」
「そりゃ来るだろ」
「来た……」
「二回言うほどか?」
リカは少しだけ目を伏せた。
「来るって分かってても、見えないと不安だった」
「まだ十時前だぞ」
「うん。今、九時五十六分」
「ちゃんと時間見てるじゃないか」
「時計台は見た。スマホの地図は見てない」
「そこは区別してるんだな」
「大事」
リカはスマホを鞄にしまった。
その動作が、なぜか誇らしげだった。
「位置確認、しなかった」
「えらい」
「ほんとに?」
「ああ」
「メッセージも送らなかった」
「来てないな」
「『今どこ?』って打ったけど消した」
「打ってはいたのか」
「三回」
「三回」
「でも送ってない」
「まあ、送ってないなら加点」
リカは嬉しそうにした。
「何点?」
「待ち合わせだけなら八十五点」
「高い」
「三回打ったから少し減点」
「そこ見る?」
「見た」
リカはむっとしたが、すぐに笑った。
「でも、悠真がちゃんと来たからいい」
「ちゃんと来るって言っただろ」
「うん」
「信用してなかったのか?」
「信用してる」
リカは即答した。
そして少しだけ声を落とす。
「でも、不安は別」
その言い方に、俺は返事を探した。
信用している。
でも、不安はある。
それはたぶん、リカにとっては矛盾ではないのだろう。
俺は頷いた。
「まあ、今日来たから、次は少し不安減るだろ」
「次も来てくれる?」
「予定が合えばな」
「次がある」
「今のは普通の言い方だろ」
「でも次があるってことじゃん」
「……まあ」
リカは、今日一番の笑顔になった。
失敗した。
不用意なことを言った気がする。
「じゃあ、今日はどこ行くんだ?」
俺が話を変えると、リカは少しだけ胸を張った。
「今日は普通の休日コースです」
「また普通か」
「普通寄り」
「ならよし」
「駅ビル見て、雑貨屋行って、本屋行って、昼はフードコート。重くない。怖くない。健全な休日」
「自分で健全と言うと怪しい」
「健全だよ。今日は退避ルートもあんまり確認しない」
「あんまり」
「全部は無理」
「正直でよろしい」
俺たちは駅ビルへ向かって歩き出した。
休日の駅ビルは、思っていたより人が多かった。家族連れ、カップル、学生、買い物客。エスカレーターの前では、小さな子供が風船を持ってはしゃいでいる。
リカは俺の隣を歩く。
制服ではないせいか、いつもより少しだけ距離が近い気がする。
いや、違う。
俺が意識しているだけかもしれない。
「悠真」
「ん?」
「今、服見た?」
「見てない」
「嘘。今、ちらっと見た」
「……見た」
「どう?」
「どうって」
「変じゃない?」
「変ではない」
「それは褒めてる?」
「褒めてる」
「じゃあ、可愛い?」
「急に踏み込むな」
「聞いてからにした」
「そういう問題じゃない」
リカは笑った。
だが、その目は少しだけ真剣だった。
俺は少し迷ったあと、言った。
「似合ってる」
リカは、びくっとした。
「え」
「似合ってるって言った」
「もう一回」
「言わない」
「今の、録音してない」
「録音するな」
「心に録音した」
「ならいい」
「よくない。心の容量足りない」
「知らん」
リカは両手で頬を押さえた。
休日の駅ビルの入口で何をやっているのか。
通り過ぎる人に見られていないか少し心配になったが、リカはそんなこと気にしていないようだった。
「悠真に服褒められた」
「大げさだな」
「大事件」
「事件にするな」
「今日の日記に書く」
「日記つけてるのか?」
「たまに。悠真関連だけ」
「それは日記じゃなくて観察記録じゃないか?」
「最近は感想文に寄せてる」
「寄せるな」
リカは楽しそうに笑った。
やっぱり、リカは騒がしいほうがいい。
駅ビルの自動ドアが開く。
休日の空気が、屋内の明るい照明と混ざる。
俺たちの休日が始まった。
*
最初に入ったのは、雑貨屋だった。
リカはこういう店が好きらしい。小物、文具、アクセサリー、ヘアピン、スマホケース。色とりどりの商品が並んでいて、俺一人なら五分で出る自信がある。
リカは棚の前で足を止めるたびに、目を輝かせた。
「悠真、これ見て。犬の付箋」
「犬だな」
「反応うす」
「付箋に濃い反応は難しい」
「じゃあこれは?」
リカが次に見せてきたのは、猫の形をしたクリップだった。
「猫だな」
「悠真、雑貨屋向いてない」
「分かってた」
「でも一緒に来てくれるんだ」
「誘われたからな」
「嫌じゃない?」
「嫌ではない」
「悪くない?」
「悪くない」
リカは嬉しそうに笑う。
「悠真の悪くない、今日も出た」
「いちいち回収するな」
「好きだから」
「便利に使うな」
リカはスマホケースの棚の前で立ち止まった。
いろいろなデザインが並んでいる。シンプルなもの、透明なもの、キャラクターもの、カードが入るもの。
リカはその中から、地図柄のケースを手に取った。
俺は嫌な予感がした。
「リカ」
「まだ何も言ってない」
「その柄は何だ」
「地図」
「なぜそれを選んだ」
「可愛いかなって」
「本当に?」
「……ちょっと位置共有っぽいかなって」
「アウト」
「まだ買ってない」
「考え方がアウト」
リカは名残惜しそうに地図柄ケースを戻した。
「じゃあこれは?」
次に手に取ったのは、透明なケースだった。
「普通」
「普通?」
「ああ」
「じゃあ、これにしようかな」
「本当に欲しいのか?」
「うーん」
「普通を選ぶために選ぶならやめとけ」
リカは目を丸くした。
「え?」
「リカが本当に好きなやつを選べばいいだろ」
「でも、地図柄はアウトって」
「位置共有ネタで俺を見ながら選ぶのはアウト。リカが単純に地図柄好きなら別」
「……単純には好きじゃない」
「じゃあアウト」
「はい」
リカは素直に戻した。
そして少し考えて、淡いピンクの小さな花柄のケースを手に取った。
「これは?」
「リカっぽい」
リカの顔がまた赤くなった。
「悠真、今日どうしたの?」
「何が」
「褒めるじゃん」
「普通に感想言っただけだ」
「その普通の感想が強い」
「知らん」
リカは花柄のケースをじっと見つめた。
「じゃあ、これにする」
「いいんじゃないか」
「悠真がリカっぽいって言ったから」
「俺のせいにするな」
「嬉しかったから」
そう言って、リカはそのケースを大事そうに持った。
俺は少しだけ視線を逸らす。
何だ、この空気。
普通の休日の買い物のはずなのに、妙に心臓に悪い。
これなら位置共有のほうがまだツッコみやすい。
*
雑貨屋を出たあと、本屋へ向かった。
本屋なら俺にも分かる。
雑貨屋よりは落ち着く。
……と思っていたのだが、リカは本屋でもリカだった。
「悠真、これ読んでそう」
「どれ」
リカが手に取ったのは、恋愛心理学の本だった。
「読まない」
「読んだほうがよくない?」
「なんで」
「あたしたち、恋愛倫理の補習中だし」
「翔太の言葉を採用するな」
「でも、恋愛の勉強って必要じゃん」
「その本で学ぶのは何か違う気がする」
リカは本の帯を読む。
「『相手の心をつかむ会話術』だって」
「やめろ」
「なんで?」
「リカがそれを読むと、会話を攻略し始めそうだから」
「攻略したらだめ?」
「だめ」
「悠真の心、つかみたい」
「そういうことを本屋で言うな」
近くにいたおじさんがちらっとこちらを見た。
俺は目を逸らした。
リカは気にしていない。
「じゃあ、こっちは?」
今度は小説棚から一冊を取る。
「青春ラブコメ」
「自分たちのジャンルを確認するな」
「でも参考になりそう」
「参考にするな。現実と小説は違う」
「でも悠真、今ちょっとラブコメ主人公っぽいよ」
「どのへんが」
「可愛い幼なじみギャルと休日デートしてるところ」
「デートじゃない」
「じゃあ何?」
「休日の待ち合わせ」
「それを世間では?」
「言わせようとするな」
リカは本を戻しながら笑った。
「デートって言ったら、悠真困る?」
「少し」
「嫌?」
「嫌ではない」
「じゃあ、可愛い寄り?」
「何でもその判定に持ち込むな」
「今日、聞いてからにしてる」
「確かに聞いてはいる」
「じゃあ、デートって言っていい?」
「……今日は言わないほうがいい」
「分かった。じゃあ、今日は休日の待ち合わせ」
「そう」
「次は?」
「次の話をするな」
「次があるって言ったの悠真」
「失言だった」
「失言じゃない。約束の芽」
「詩的に言ってもだめだ」
リカは楽しそうだった。
俺も、たぶん楽しかった。
認めたくはないが。
本屋を出る頃には、もう昼に近くなっていた。
*
フードコートは混んでいた。
休日の昼時だから当然だ。家族連れや学生が席を探し、トレーを持った人たちが行き交っている。ラーメン、うどん、ハンバーガー、クレープ、たこ焼き。匂いが混ざって、空腹を刺激する。
リカは人混みを見て、少しだけ固まった。
「混んでるね」
「別の場所にするか?」
「ううん。普通の休日っぽいから、ここで」
「普通へのこだわりが強いな」
「今日はGPSなし待ち合わせ成功記念だから」
「記念日が増えるな」
「心の中だけ」
「スマホには?」
「書かない」
「偉い」
席を探す。
リカは一瞬、スマホを取り出しかけた。
「何する気だ」
「フードコートの席、どのエリアが空きやすいか検索しようかなって」
「今、目の前で探せばいいだろ」
「そうだね」
リカはスマホをしまった。
「今日、あたし頑張ってない?」
「頑張ってる」
「何点?」
「まだ昼だから途中点な」
「途中点」
「八十七点」
「高い」
「位置確認してない。聞いてから動いてる。スマホ検索もやめた」
「やった」
リカは嬉しそうにした。
その時、ちょうど二人席が空いた。
俺たちはそこに座り、何を食べるか決めることにした。
「悠真、何食べる?」
「ラーメンかな」
「野菜少ない」
「昼から健康指導か」
「あ、言わないほうがよかった?」
「いや、言ってもいい。押しつけなければ」
「じゃあ、提案。野菜も食べて」
「サイドメニューで何か頼む」
「九十点」
「俺が?」
「うん」
「採点の主導権を握るな」
リカはハンバーガーにすると言った。
「お前も野菜少ないだろ」
「レタス入ってる」
「それでいいのか」
「ギャル理論」
「便利だな、ギャル」
「悠真も使う?」
「使わない」
注文して席に戻ると、リカはトレーの上のハンバーガーを見つめた。
「どうした」
「写真撮っていい?」
「食べ物ならいいだろ」
「悠真のラーメンも?」
「それもまあ」
「悠真は?」
「俺は撮るな」
「じゃあ、手だけ」
「なんで手を撮りたがる」
「一緒にいる感が出る」
「手でも個人情報だ」
「厳しい」
「影で我慢しろ」
「分かった。影フォルダ作る」
「作るな」
リカは食べ物の写真だけ撮った。
そしてちゃんとスマホをしまう。
その動作が自然になってきた。
最初は一つひとつ「しまったよ」と主張していたが、今は少しずつ普通にできている。
リカがハンバーガーを一口食べる。
「おいしい」
「よかったな」
「悠真のラーメンは?」
「普通にうまい」
「普通にうまいって、悠真っぽい」
「どういう意味だ」
「ちゃんと褒めるけど、言葉が落ち着いてる」
「ラーメン相手にテンション上げても仕方ないだろ」
「あたし相手には?」
「上げない」
「でも今日、ちょっと上がってる」
「上がってない」
「服褒めたし、ケース選んでくれたし、次があるって言ったし」
「全部覚えてるのか」
「好きな人の嬉しい言葉は記録されます」
「怖い寄り」
「スマホには記録してない」
「なら可愛い寄り」
「やった」
リカは笑った。
その笑顔を見て、俺はふと思った。
今日のリカは、本当に頑張っている。
現在地を聞かない。
不安でも待つ。
スマホを見すぎない。
俺の反応を確認しながら、でも近づきすぎないようにしている。
たぶん、本人にとってはずっと緊張しているのだろう。
そう思うと、少しだけ何かをしてやりたくなった。
俺はラーメンを食べ終え、トレーを見ながら言った。
「リカ」
「ん?」
「今日は、わりと楽しい」
リカの動きが止まった。
ハンバーガーを持ったまま、固まる。
「……今、何て?」
「二回は言わない」
「お願い」
「言わない」
「じゃあ、あたしの記憶で再生する」
「好きにしろ」
「悠真が、今日は、わりと、楽しい」
「区切るな」
「やばい。今日、百点かもしれない」
「まだ昼だ」
「でも今ので百点」
「俺の発言でお前の点が上がるのか」
「上がる。悠真が楽しいなら、あたしは百点」
その言い方は、少しだけ危うかった。
俺が楽しいなら、リカは百点。
それは嬉しいようで、また俺基準に寄りすぎている。
だから俺は言った。
「リカも楽しいか?」
リカは目を丸くした。
「え?」
「俺が楽しいかだけじゃなくて、リカも楽しいか」
リカは少し黙った。
それから、ゆっくり笑った。
「楽しい」
「ならいい」
「悠真、そういうとこ、ほんとずるい」
「今日何回目だよ」
「何回でも言う」
リカはハンバーガーをもう一口食べた。
今度の笑顔は、さっきよりも少し自然だった。
*
帰り道。
駅前の時計台が見えてきた。
朝、リカがスマホを握りしめながら待っていた場所だ。
そこまで戻ってきた時、リカは足を止めた。
「悠真」
「うん」
「今日、待てた」
「ああ」
「位置確認しなかった」
「ああ」
「メッセージも送らなかった」
「三回打ったけどな」
「送ってない」
「そうだな」
「悠真、ちゃんと来た」
「来るって言ったからな」
「うん」
リカは時計台を見上げた。
「次、もう少し待てる気がする」
「次がある前提か」
「あるでしょ?」
リカがこちらを見る。
その目が、いつもより少しだけ不安そうだった。
俺はため息をつく。
「予定が合えばな」
リカは笑った。
「それ、前向きなやつ」
「勝手に解釈するな」
「でも、断ってない」
「まあ、断ってない」
「じゃあ、次もGPSなしで待つ」
「えらい」
「今日、何点?」
俺は少し考えた。
待ち合わせ成功。
位置共有なし。
スマホ確認なし。
買い物も普通寄り。
フードコートでも、だいぶ自然だった。
地図柄スマホケースと恋愛心理学の本は減点かもしれないが、許容範囲だ。
「九十二点」
リカが息を呑んだ。
「九十超えた」
「ああ」
「初?」
「たぶん」
「やった……」
リカは本当に嬉しそうに笑った。
それから、少しだけ照れたように言う。
「ご褒美は?」
「調子に乗るな」
「聞くだけならセーフ」
「何が欲しいんだよ」
リカは少し考えた。
そして、意外なことを言った。
「今日の写真、一枚だけ一緒に見返して」
「写真?」
「影の写真」
「また撮ったのか?」
「うん。時計台のところで、朝こっそり撮った。悠真が来る前の影」
「俺いないじゃないか」
「うん。あたし一人の影」
リカはスマホを取り出し、画面を見せてきた。
そこには、時計台の下で一人立つリカの影が映っていた。
朝の光に伸びた、一人分の影。
「これ、待ってる時のあたし」
「……」
「ちょっと寂しそうでしょ」
「そうだな」
「でも、悠真が来た」
リカは次の写真を見せた。
それは、俺が到着したあとに撮ったらしい。
気づかなかった。
時計台の下、二人分の影が並んでいた。
微妙な距離で。
近すぎず、遠すぎず。
「これ、今日の九十二点」
リカはそう言った。
俺は写真を見たまま、少し黙った。
「送る?」
リカが聞く。
「影なら」
「うん。影だけ」
「なら、送っていい」
リカは嬉しそうに頷いた。
「送る。家宝にして」
「家宝にするとは言ってない」
「お気に入り登録は?」
「しない」
「でも見る?」
「……一回くらいは」
リカは笑った。
「じゃあ十分」
*
その夜、リカから写真が送られてきた。
一枚目。
一人分の影。
二枚目。
二人分の影。
そのあとにメッセージ。
『今日は待てた』
俺は返信した。
『待ててたな』
『悠真が来た』
『行くって言ったからな』
『次も信じる練習する』
『ほどほどに』
『うん』
少し間が空いた。
『今日は楽しかった?』
俺は画面を見つめる。
昼に言ったのに、もう一度聞いてくるあたりがリカらしい。
でも、今日は答えてもいい気がした。
『楽しかった』
送信。
すぐ既読。
返信は、しばらく来なかった。
数分後。
『今、ちょっと泣きそう』
俺は驚いた。
『大丈夫か?』
『大丈夫。嬉しいだけ』
『泣くほどか?』
『泣くほど』
次のメッセージ。
『悠真が来てくれて、楽しかったって言ってくれて、位置共有しなくても大丈夫だった』
俺は、その文章をしばらく見ていた。
リカにとって、今日はただの休日ではなかったのだ。
好きな人を管理しなくても待てるか。
見えない時間を信じられるか。
現在地を知らなくても、相手がちゃんと来ると信じられるか。
それは、リカなりの小さな戦いだった。
『よかったな』
俺はそう送った。
『うん』
リカから返ってくる。
『でも次は、悠真が遅刻したらたぶん死ぬほど不安になる』
『遅刻しないようにする』
『もし遅刻したら?』
『連絡する』
『位置共有は?』
『なし』
『じゃあ待つ』
俺は少し笑った。
『えらい』
『今日、九十二点だから』
『調子に乗るな』
『乗る。今日は乗る』
『ほどほどに』
『はーい』
最後に、リカから一通。
『おやすみ、悠真。今日は来てくれてありがとう』
俺は少しだけ迷ってから、返信した。
『おやすみ。誘ってくれてありがとう』
送信してから、少し恥ずかしくなる。
リカからの返信はなかった。
既読だけがついた。
たぶん、画面の向こうで固まっているのだろう。
俺はスマホを机に置き、送られてきた写真をもう一度見た。
一人分の影。
二人分の影。
リカは一人で待っていた。
俺はそこへ行った。
ただそれだけのことだ。
でも、リカにとっては大きかった。
そして俺にとっても、思ったより大きかった。
休日の待ち合わせ。
GPSなし。
位置共有なし。
それでも、ちゃんと会えた。
普通のことなのに、普通じゃないくらい意味があった。
俺は写真を閉じようとして、少しだけ迷った。
そして、二人分の影の写真をお気に入りに入れた。
リカには言わない。
絶対に言わない。
言ったらたぶん、明日の朝から大変なことになる。
でも、まあ。
今日くらいは。
悪くない。




