第9話 十年間、不運だった少女
神崎悠斗は、運が良い人間ではない。
宝くじに当たったことはない。
福引では、だいたい参加賞のティッシュを引く。
雨の日に限って傘を忘れることもあれば、急いでいる日に電車が遅れることもある。
だが、それを不運だと深刻に考えたことはなかった。
大抵の人間は、良いことと悪いことを繰り返しながら生きている。
何もかもうまくいく日は少ない。
反対に、何もかも悪い結果になる日も、そう長くは続かない。
だから悠斗は、目の前の少女を見たとき、最初は偶然だと思った。
◇
「危ない!」
休日の午後。
悠斗が商店街を歩いていると、前方から一台の自転車が突っ込んできた。
買い物袋をハンドルにぶら下げた、若い男性。
片手にはスマートフォン。
前を見ていない。
その進行方向に、一人の少女が立っていた。
年齢は十七歳くらい。
肩まで伸びた黒髪。
紺色のスカートに、白いブラウス。
近くの高校の制服だろう。
少女は落とした定期入れを拾おうとして、自転車に気付いていなかった。
悠斗は少女の腕をつかみ、歩道の端へ引き寄せる。
自転車が、二人のすぐ横を通り抜けた。
「うわっ!」
男性はようやく顔を上げ、慌ててブレーキをかける。
しかし今度は、道路脇に置かれていた看板へ衝突した。
看板が倒れる。
立てかけられていた傘が落ちる。
傘がバケツにぶつかる。
バケツの水が歩道へ流れる。
その水を避けようとした通行人が、持っていた紙袋を落とした。
中から転がり出たリンゴが、少女の足元へ向かってくる。
「また?」
少女は慣れたようにつぶやいた。
リンゴを避けようとして一歩下がる。
その先に、先ほど落とした定期入れがあった。
少女のかかとが定期入れを踏む。
「きゃっ!」
足を滑らせた少女を、悠斗が再び支えた。
「大丈夫か?」
「はい。すみません」
少女は悠斗の腕から離れ、制服の裾を整える。
「助けていただいて、ありがとうございます」
「けがは?」
「ありません」
自転車の男性も、申し訳なさそうに戻ってきた。
「ごめん! 本当にごめん! 大丈夫だった?」
「はい。いつものことなので」
少女は穏やかに答えた。
男性が困惑する。
「いつものこと?」
「気にしないでください」
少女は落ちた定期入れを拾い、軽く頭を下げて歩き出した。
その直後。
建物の二階から、大量の水が降ってきた。
「えっ」
少女の全身が一瞬で濡れる。
二階の窓から、清掃員らしき女性が顔を出した。
「ご、ごめんなさい! 植木の水が!」
「大丈夫です」
少女は驚くことも、怒ることもしなかった。
鞄から小さなタオルを取り出し、顔を拭く。
「……本当に、いつものことみたいだな」
悠斗の隣で、アリアがつぶやいた。
彼女の姿は、少女にも周囲の人間にも見えていない。
「水を浴びることが?」
「いえ」
アリアは少女の周囲を見つめる。
「悪い偶然が、彼女へ集まっています」
少女の頭上には、黒く細い運命線が何本も伸びていた。
落下物。
故障。
遅延。
忘れ物。
他人の失敗。
本来なら別々の場所へ向かうはずの小さな不運が、少女一人へ吸い寄せられている。
悠斗は歩き出した少女を追いかける。
「少し待ってくれ」
少女が振り返る。
「まだ何か?」
「その制服、近くの高校だよな」
少女がわずかに警戒する。
「そうですけど」
「怪しい意味じゃない。さっきのようなこと、よく起きるのか?」
「さっきのようなこと?」
「自転車が来て、水をかけられて、転びそうになるようなこと」
少女は不思議そうな顔をした。
質問の意味が分からないのではない。
なぜそんなことを聞くのかが分からない、という顔だった。
「普通じゃないですか?」
「普通ではないと思う」
「そうなんですか?」
少女は本気で尋ねている。
「今日はまだ、軽いほうです」
「軽い?」
「けがをしませんでしたから」
悠斗とアリアは顔を見合わせた。
「名前を聞いてもいいか?」
「白石真帆です」
「俺は神崎悠斗」
悠斗は少し迷った。
神界のことを、一般の人間へ簡単に話すわけにはいかない。
「保険関係の調査をしていて」
とっさに出た言い訳だった。
アリアが横で首をかしげている。
「事故やトラブルに遭いやすい人について、少し確認したい」
「保険の人なんですか?」
「正確には違う」
「怪しいですね」
「自分でもそう思う」
真帆はしばらく悠斗を見つめたあと、少しだけ笑った。
「でも、さっき助けてくれたので、少しくらいなら」
◇
三人は近くの喫茶店へ入った。
真帆にはアリアが見えないため、悠斗と真帆が向かい合って座る。
アリアは悠斗の隣に座り、勝手にメニューを開いていた。
「神崎様。この季節限定パフェを注文してください」
「今は調査中だ」
「調査には糖分が必要です」
「神に必要ないだろ」
「誰と話してるんですか?」
真帆が尋ねる。
「独り言だ」
「よく言われません?」
「最近増えた」
悠斗はコーヒーを注文する。
真帆は一番安い紅茶を選んだ。
「遠慮しなくていい」
「高いものを頼むと、たぶん何か起きるので」
「何か?」
「店員さんが落とすとか、注文が間違って届くとか」
「毎回?」
「毎回ではありません」
真帆は少し考える。
「七割くらいです」
「かなり高いな」
「安いものなら、間違っても申し訳なくないので」
その考え方に、悠斗は胸が痛くなった。
真帆は不運を避けようとしているのではない。
もう避けられないものだと諦め、周囲への被害を小さくしようとしている。
「いつから、こういうことが起きてる?」
「小学校に入った頃からです」
「具体的には?」
「遠足の日は、だいたい雨でした」
真帆は指を折りながら話し始める。
「運動会では転びました。発表会の日は、声が出なくなりました。楽しみにしていた給食の日は、私の分だけ足りませんでした」
「偶然という範囲では?」
「最初は、そう思ってました」
しかし不運は、年齢とともに増えていった。
修学旅行の前日に高熱を出す。
大切にしていた物だけ紛失する。
自分の提出物だけ、なぜか届かない。
テストの日に筆記用具がすべて壊れる。
合格圏内だった高校受験で、電車が止まり、別室受験になる。
友人との約束の日には、必ず何かが起こる。
「友達からは、最初は心配されました」
真帆は紅茶へ視線を落とす。
「でも、だんだん誘われなくなって」
「真帆さんがいると、何か起きるから?」
「はい」
学校の文化祭。
真帆が参加したクラスの出し物だけ、設備が故障した。
部活動では、真帆が出場する予定だった大会だけ中止になった。
友人の誕生日会に参加すれば、会場で停電が起きた。
「誰かを巻き込むほうが嫌なんです」
「だから、一人でいる?」
「そのほうが安全なので」
注文した紅茶が届く。
店員がカップを置こうとした瞬間、足を滑らせた。
「あっ!」
カップが傾く。
しかし悠斗が素早く皿を支える。
紅茶は一滴もこぼれなかった。
「す、すみません!」
「大丈夫です」
店員が何度も頭を下げて立ち去る。
真帆はカップを見つめた。
「珍しい」
「何が?」
「こぼれませんでした」
彼女は小さく笑う。
「神崎さんといると、少しだけ運がいいのかもしれません」
悠斗は笑えなかった。
アリアがGOD REVIEWの検索画面を開いている。
「神崎様」
声が硬い。
「見つけました」
悠斗はスマートフォンを取り出し、机の下で画面を確認する。
《対象者:白石真帆》
《運命補正:有効》
《分類:成長促進試練》
《適用期間:十年二か月》
「成長促進試練?」
「本人へ困難を与え、それを乗り越えることで、精神的・能力的成長を促す運命補正です」
「十年間も?」
「通常は長くても一年です」
さらに詳細を開く。
《付与時年齢:七歳》
《選定区分:主人公候補》
《候補選定結果:不採用》
《補正解除:未完了》
悠斗の指が止まる。
「主人公候補って何だ?」
「人間界では、社会や歴史へ大きな影響を与える人物が必要になる場合があります」
「勇者や英雄みたいなものか?」
「それだけではありません。偉大な研究者、指導者、芸術家なども含まれます」
神界は、将来大きな役割を担う可能性がある子どもを複数人選び、試練を与える。
困難を乗り越える力。
他者の痛みを理解する心。
諦めない意志。
それらを育て、最も適性の高い一人を主人公として選ぶという。
「選ばれなかった子は?」
「候補から外れた時点で、試練補正を解除します」
「真帆さんは?」
「七歳で候補になり、八歳で対象外になっています」
「なのに、今も補正が残ってる」
「解除処理が失敗したようです」
悠斗は真帆を見る。
彼女は何も知らず、静かに紅茶を飲んでいる。
十年間。
本来なら一年で終わるはずだった試練を、十年間受け続けた。
主人公になるための困難。
だが彼女は主人公には選ばれなかった。
成長を確認する神もいない。
物語の目的もない。
ただ不運だけが残った。
「担当は?」
「運命管理局です」
「フェイトに連絡してくれ」
◇
喫茶店を出たあと、悠斗は真帆へ連絡先を渡した。
「明日、一日だけ時間をもらえるか?」
「何をするんですか?」
「不運の原因を調べる」
「分かるんですか?」
「たぶん」
真帆は名刺代わりの紙を見つめる。
「今までも、いろいろ試しました」
「お祓いとか?」
「神社にも、お寺にも行きました。占いも受けました」
神社で祈った結果、その神社の鈴が落ちたという。
占い師には「ここまで悪い結果が並ぶのは見たことがない」と言われ、料金を返された。
「だから、あまり期待しないでください」
真帆は笑った。
「期待して駄目だったときのほうが、つらいので」
その笑顔は、十七歳の少女がするには疲れすぎていた。
「期待しなくていい」
悠斗は答える。
「俺が勝手に調べる」
◇
真帆と別れたあと、悠斗とアリアはフェイトへ連絡した。
画面に黒髪眼鏡の運命神が現れる。
『白石真帆?』
フェイトは対象者の記録を開いた。
『主人公候補からは十年前に外れている』
「でも試練補正が残っています」
『あり得ない』
「記録を見てください」
『対象から外れた時点で、自動解除される仕様だ』
「仕様どおり動いていないから連絡しています」
フェイトは険しい顔で画面を操作する。
『解除済みと記録されている』
「現在の状態は?」
『……有効』
「矛盾してますね」
『表示上の問題かもしれない』
「現実に十年間、不運が続いてる」
『その不運が補正によるものとは限らない』
「都合の悪いときだけ偶然扱いしないでください」
悠斗は真帆の周囲で起きた出来事をまとめ、フェイトへ送信した。
天候異常。
設備故障。
落とし物。
交通障害。
他人の失敗。
どれも単体なら、よくある出来事だ。
しかし一人へ集中しすぎている。
フェイトは記録を読み、しばらく黙っていた。
『ログを確認する』
「今からですか?」
『主人公候補の記録は、通常の運命記録とは別の領域にある』
「現場に来てください」
『またか』
「管理画面だけで問題なしにされると困る」
『以前の件は学んだ』
「なら話が早い」
フェイトは深いため息をつく。
『明日、人間界へ向かう』
◇
翌朝。
悠斗、アリア、フェイトは、真帆の家の近くで待ち合わせた。
「本当に来たんですね」
私服姿の真帆は、少し驚いていた。
もちろん彼女に見えているのは悠斗だけ。
アリアとフェイトは認識阻害を使っている。
「今日はいつもどおり過ごしてほしい」
「いつもどおり?」
「買い物したり、電車に乗ったり」
「危ないですよ」
「俺が付いてる」
「神崎さんがけがをするかもしれません」
「そのときは、この二人にも働いてもらう」
真帆には独り言に聞こえる。
「やっぱり、少し変な人ですね」
「最近よく言われる」
調査が始まった。
最初は近所のコンビニ。
真帆が入店すると、入口の自動ドアが途中で止まる。
「またです」
彼女は驚かない。
店員が手動で開ける。
パンを一つ取ると、商品棚の上にあった値札が落ちてくる。
レジへ向かうと、真帆の前で会計システムが停止する。
「申し訳ありません。少々お待ちください」
「大丈夫です」
真帆は慣れた声で答える。
フェイトは彼女の周囲へ広がる運命線を調べていた。
「試練補正が、周辺の軽微な不具合へ接続している」
「故障させているのか?」
「壊れる可能性がある物を選び、その時期を早めている」
「わざわざ真帆さんがいるときに?」
「そうだ」
次は駅。
真帆が改札へ定期券を当てる。
エラー音。
再び当てる。
エラー。
駅員が確認すると、定期券の情報だけが読み取れなくなっていた。
「昨日までは使えたんです」
「磁気不良でしょうか」
「このカード、磁気じゃないはずですけど」
駅員も困惑する。
新しいカードを発行してもらう間に、乗る予定だった電車が発車する。
「いつも、こんな感じです」
真帆は笑った。
「でも次の電車がありますから」
悠斗は何も言えなかった。
真帆は不満を言わない。
怒らない。
最初から、予定どおり進むことを諦めている。
次の電車へ乗る。
車内では、真帆の座った席の空調だけが冷たい風を送り始める。
場所を移動すると、隣の乗客が持っていた飲み物を落とす。
真帆の靴が濡れる。
「すみません!」
「気にしないでください」
駅を出る。
信号が目の前で赤になる。
青になるまで待つ。
青になった瞬間、緊急車両が通過する。
もう一度赤になる。
「まだ偶然だと言いますか?」
悠斗がフェイトへ尋ねる。
「言わない」
フェイトの表情は硬い。
「補正が作用している」
「どうして解除されてない?」
「ログをさらに遡る」
◇
四人は近くの公園へ移動した。
真帆には少し休んでもらい、悠斗たちは運命ログを確認する。
《主人公候補選定》
《対象者:白石真帆》
《年齢:七歳》
《試練補正レベル:一》
《候補期間:十二か月》
小さな不運を与え、その反応を観察する。
誰かに助けを求められるか。
失敗後に工夫できるか。
他人の失敗を許せるか。
候補者は真帆を含め、百人以上いた。
その中から一人が正式な主人公候補として選ばれる。
真帆は不採用。
理由は、
《自己犠牲傾向が強く、主体的行動が不足》
「七歳の子どもに何を求めてるんだ」
「世界へ大きな影響を与える者には、強い主体性が必要と判断された」
フェイトは淡々と答える。
「それなら補正を解除すべきだった」
「その処理は実行されている」
ログには、たしかに解除要求があった。
《試練補正解除》
《処理開始》
《対象者照合》
《候補番号:A-071》
《解除完了》
「完了になってる」
アリアが言う。
「でも現実には残っています」
「照合先を確認してくれ」
悠斗はログを拡大する。
真帆の候補番号。
A-071。
しかし解除対象者として記録されている番号は、
A-017。
「数字が入れ替わってる」
フェイトの動きが止まった。
「入力ミスか?」
「自動処理です」
アリアが関連ログを開く。
処理実行時、候補番号を並び替える更新が行われていた。
新しい管理方式へ移行する際、表示番号は変わったが、解除処理には古い番号が渡された。
A-071だった真帆は、新システムではA-017へ変更されている。
だが解除処理は、旧システムのA-017を対象に実行した。
別の候補者の補正が二重に解除され、真帆の補正は残った。
「それなのに解除完了になった」
「処理自体は成功したからだ」
「対象が違うのに?」
「結果確認の項目がなかった」
フェイトは低い声で答える。
「解除命令が正常終了したことだけを確認し、白石真帆の補正が実際に消えたか確認していない」
「十年前の移行ミスか」
「ああ」
「その後は?」
「候補者から外れているため、定期監視の対象外になった」
主人公候補ではない。
だから管理画面にも表示されない。
試練補正だけが、誰にも気付かれず動き続けた。
「対象から外れたから、問題がないことにされた」
悠斗はつぶやく。
「彼女にとっては、そこからが始まりだったのに」
フェイトは返事をしなかった。
公園のベンチでは、真帆が一人で空を見上げている。
彼女の頭上へ、木の枝から鳥のふんが落ちようとしていた。
悠斗が無言で彼女の肩を引く。
ふんはベンチの端へ落ちた。
「ありがとうございます」
真帆はまた笑った。
「今日は神崎さんがいるので、本当に運がいいです」
「違う」
「え?」
「真帆さんの運が悪かったのは、真帆さんのせいじゃない」
彼女は悠斗を見つめる。
「原因が見つかった」
「本当ですか?」
「ああ」
「直せるんですか?」
「直す」
悠斗はフェイトを見る。
「補正を解除してください」
「ただ解除するだけでは不十分だ」
フェイトが答える。
「十年間、試練補正が彼女の運命へ影響している。急に消すと、反動が生じる可能性がある」
「反動?」
「抑えられていた幸運が、一度に戻る可能性がある」
「良いことでは?」
アリアが尋ねる。
「宝くじに連続で当たり、偶然得た利益によって人生が崩れる場合もある。過剰な幸運も運命を不安定にする」
「普通に戻せないのか?」
「試練補正を停止し、十年間で偏った運命確率を段階的に平準化する」
「過去は変えない?」
「変えない」
「真帆さんの記憶も?」
「そのまま残る」
以前の事故多発地点と同じだ。
過去を消せば、真帆の十年間は別のものになる。
友人関係。
進学。
家族との時間。
すべてが変わってしまう。
不運な十年だった。
それでも、真帆が生きた十年だ。
「今から先を直してください」
悠斗は言った。
「分かった」
フェイトが管理画面を開く。
《対象者:白石真帆》
《成長促進試練:強制停止》
《主人公候補状態:解除済み》
《不運誘引補正:無効》
《運命確率平準化:開始》
《過去記録保持:有効》
承認。
真帆の周囲を覆っていた黒い線が、一つずつ消えていく。
設備故障へ向かっていた線。
天候異常へつながっていた線。
他人の失敗を引き寄せていた線。
最後に、真帆の頭上に浮かんでいた黒い印が砕け、光の粒となって消えた。
「終わったのか?」
「補正は停止した」
フェイトが答える。
「これからは、ほかの人間と同程度の幸運と不運になる」
「同程度……」
真帆にはフェイトの声が聞こえない。
それでも、何かを感じたように自分の手を見つめた。
「何か、変わりましたか?」
「まだ分からない」
悠斗は答える。
「一日、様子を見よう」
◇
その日の残りを、悠斗は真帆と一緒に過ごした。
最初に、もう一度コンビニへ行く。
自動ドアは正常に開いた。
商品棚から物は落ちない。
真帆が選んだパンは、賞味期限も問題ない。
レジも止まらなかった。
「……買えました」
真帆は袋を見つめている。
「普通だろ」
「はい」
次に駅。
新しく発行された定期券を改札へ当てる。
軽い電子音。
扉が開く。
エラーは出ない。
「通れました」
「普通だ」
「はい」
ホームへ着く。
電車は時刻どおりに来る。
乗車中、空調は普通。
飲み物もこぼれない。
目的の駅で降りる。
「遅れませんでした」
「普通だな」
「……はい」
昼食は、真帆が以前から気になっていた店へ入った。
「入ってみたかったんです」
「どうして今まで入らなかった?」
「私が行くと、臨時休業だったり、目当ての料理だけ売り切れていたりするので」
店は開いていた。
目当てのオムライスも注文できた。
店員は皿を落とさず、注文も間違えなかった。
真帆は料理を前に、しばらく動かなかった。
「食べないのか?」
「何か起きるかと思って」
「もう大丈夫だ」
「そうですよね」
彼女はスプーンを持つ。
一口食べる。
「おいしいです」
たったそれだけの感想だった。
だが真帆の目には、薄く涙が浮かんでいた。
悠斗は気付かないふりをした。
◇
夕方。
真帆を家まで送る。
信号はちょうど青になった。
強風も吹かない。
車も突っ込んでこない。
頭上から何かが落ちることもない。
夕焼けの下を、ただ歩く。
「今日は、何も起きませんでしたね」
真帆が言った。
「まだ家に着いてない」
「そうですけど」
「最後まで気を抜くな」
「神崎さん、慎重ですね」
「仕事柄な」
真帆の家の前へ到着する。
玄関は普通に開いた。
家の中から母親の声が聞こえる。
「真帆、おかえり」
「ただいま」
真帆は一度家へ入ろうとして、足を止めた。
振り返る。
「神崎さん」
「何だ?」
「今日は、自転車にぶつかりそうになりませんでした」
「ああ」
「電車も止まりませんでした」
「ああ」
「お昼も、ちゃんと食べられました」
「ああ」
「何も壊しませんでした。誰にも迷惑をかけませんでした」
彼女は笑う。
いつもの、諦めたような笑顔ではない。
年齢相応の、少し幼さの残る笑顔だった。
「普通の日って、こんなに楽なんですね」
悠斗は、すぐに返事ができなかった。
普通の日。
電車が時間どおりに来る。
注文した料理が届く。
道を歩いても事故に遭わない。
何も起きず、家へ帰る。
多くの人にとっては、記憶にも残らない一日だ。
真帆は、それを十年間知らなかった。
「明日からも、だいたいこんな感じだ」
「絶対ですか?」
「絶対とは言えない」
悠斗は正直に答える。
「雨の日もある。電車が遅れる日もある。失敗することもある」
「はい」
「でも、それは真帆さんだけに起きることじゃない」
彼女は少し考え、ゆっくりとうなずいた。
「それなら、大丈夫です」
「何が?」
「みんなと同じなら」
真帆は頭を下げる。
「ありがとうございました」
「俺は原因を見つけただけだ」
「それでも」
真帆は顔を上げる。
「初めて、明日の予定を立ててみようと思います」
「何をする?」
「友達に連絡します」
一緒にいると何かが起こる。
そう思い、距離を置いていた友人たち。
「断られるかもしれませんけど」
「それは運とは別の問題だな」
「分かっています」
真帆は笑った。
「でも、今度は自分で頑張ってみます」
◇
真帆が家へ入ったあと。
悠斗はGOD REVIEWを開いた。
フェイトへのレビュー投稿画面。
今回は迷わず、星を一つ選ぶ。
★☆☆☆☆
「★1なのですね」
アリアが隣で言う。
「十年間放置した事実は変わらない」
★☆☆☆☆
主人公候補から外れた対象者に、成長促進試練が十年間継続していました。
解除処理の対象番号を誤っていたにもかかわらず、処理の終了状態だけを確認し、実際に補正が解除されたか検証していません。
また、候補から外れた人間が監視対象外となる仕組みにより、問題の発見が遅れました。
解除処理後は、必ず対象者の状態を確認してください。
主人公に選ばれなかった人間にも、その後の人生があります。
送信する。
少しして、フェイトから返信が届いた。
《指摘を受理した》
《過去の全主人公候補について、補正解除状態の一斉確認を開始する》
《新規処理では、実行結果と対象状態の両方を検証する》
さらに、一文。
《白石真帆の件について、運命管理局の責任を認める》
「フェイト様が、明確に責任を認めるのは珍しいです」
「★1のままだけどな」
「改善後に変更されますか?」
「全員の確認が終わったら考える」
悠斗はレビュー画面を閉じる。
これまで、レビューを書けば神界が騒いだ。
神々の仕事が増えた。
世界に副作用が起きることもあった。
自分の判断が正しいのか、分からなくなることもあった。
だが今日。
一人の少女が、何事もなく家へ帰った。
普通の一日を送り、明日の予定を立てた。
たったそれだけ。
世界全体から見れば、小さな変化だ。
神界の管理画面なら、誤差として処理されるかもしれない。
それでも真帆にとっては、十年間待ち続けた変化だった。
「アリア」
「はい」
「レビューを書いてよかった」
アリアは少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「そうですね」
「今までは、問題を見つけたから書いてた」
「今回は違うのですか?」
「誰かの人生を助けられたって、初めて実感した」
GOD REVIEWは、世界を書き換える危険な力だ。
過去を消し、人の記憶を変えることもできる。
使い方を間違えれば、誰かを傷つける。
それでも。
見落とされた人の声を拾うこともできる。
放置された不具合を見つけることもできる。
誰かから奪われた普通の日を、取り戻すこともできる。
「もっと慎重に使わないとな」
「レビューをやめるという結論にはならないのですね」
「やめたら、真帆さんみたいな人を見つけられない」
「神崎様らしいです」
アリアが言った。
◇
その夜。
真帆は自室で、久しぶりに友人へメッセージを送った。
『急にごめん』
『今度の日曜日、よかったら一緒に出かけない?』
送信する。
すぐには返事が来ない。
以前なら、この時点で悪い結果を想像していた。
嫌われている。
迷惑に思われている。
きっと断られる。
だが今日は、少しだけ待ってみることにした。
数分後。
スマートフォンが震える。
『行こう!』
『最近あまり話せなかったから、気になってた』
『どこ行く?』
真帆は画面を見つめる。
その目から、涙が一粒落ちた。
悲しいからではない。
何かが壊れたからでもない。
予定がつぶれたからでもない。
日曜日に、友達と出かける。
ただそれだけの未来が、自分にもあることが嬉しかった。
真帆は涙を拭き、返信を打つ。
『水族館に行ってみたい』
送信。
画面は消えない。
スマートフォンも壊れない。
停電も起きない。
何事もなく、返事が届く。
『いいね! 楽しみ!』
真帆はベッドへ横になった。
明日が来るのを、少しだけ楽しみにしながら目を閉じる。
その夜、彼女の部屋には何も起きなかった。
それは、十年ぶりに訪れた、とても幸運な夜だった。




