第9話 参謀の査定と、影の自覚
放課後の教室。
昼間のざわめきが嘘のように静まり返り、夕日が黒板を鈍く照らしている。
その静寂の中で、志保先生が私に一輪の花を差し出した。
光を吸い込むような、漆黒の「黒百合」。
指先に触れる花弁は、死の接吻みたいに冷たい。
それは学園最大の派閥からの「召喚状」。
選別であり、拒絶を許さない命令だった。
◇
私は、一般生徒の立ち入りが禁じられた「フローラリア専用寮」の鉄門をくぐった。
門の向こう側だけが、別の時間に支配されているみたいだ。
サロンへ続く廊下は、外界と切り離された静けさに満ちている。
音もなく行き交う特待生たちの視線が、異物である私を値踏みしては離れていく。
彼女たちのまとう高級な香りと、古びた紙の匂い。
普通科の短いスカートを穿いた私の膝が、耐えがたいほど「場違い」に思えて、身体が震えた。
「来たわね、小井縫南藻。……そこへ座りなさい」
サロンの奥で待っていたのは、一年生にして派閥の参謀を務める黒崎結衣さま。
彼女がまとう黒いシルクの制服が、冷徹な光沢を放っている。
結衣さまは、解剖台の検体を見るような目で私をじっくりと観察した。
その沈黙が、言葉よりも重くのしかかる。
「あの、結衣さま。お話というのは……?」
勇気を出して呼んだ「さま」という敬称を、彼女は無造作な沈黙で流した。
肯定も否定もない。
私はただ、評価する価値もない存在としてそこに立たされていた。
彼女の指先がタブレットを滑るたび、乾いた音が静寂を切り裂く。
画面の青白い光に照らされるのは、私の凡庸な成績や家柄、隠し撮りされた日常。
私は、冷酷なデータとして処理されていく。
「貴女のせいで、こちらの計画が狂わされているのよ」
結衣さまは重いため息をついた。
それは叱責というより、計算ミスへの苛立ちに見えた。
「はっきり言って、ブラックリリーにとって貴女の価値はゼロよ。家柄も成績も平凡。産業スパイかと思ったけれど……そんな度胸もなさそうね。本来なら、他派閥に奪われてもどうでもいい人材なのよ」
言葉のナイフが、容赦なく私を切り裂く。
けれど、どこかで納得している自分がいた。
自覚していた「自分の低評価」を、誰かに正確に言葉にされただけなのだと。
私は恥辱に顔を伏せ、安っぽいスカートを指が白くなるほど握りしめた。
結衣さまの前で晒された私の脚は、あまりに無防備で、卑俗に思えた。
「……けれど、有栖川月華さまが『どうしても、あの子でなくては』とおっしゃるのよ。誰にも興味を示さなかったあの『姿隠しの姫君』が、ね」
その二つ名を口にしたとき、結衣さまの眉がわずかに寄った。
参謀の彼女にとっても、月華さまは御しきれない「不確定要素」なのだろう。
「訊かせて。貴女は月華さまにとって、どれほど『重要』なの? 気まぐれなら他派閥との交渉で使い捨てたいし、ちゃんとした理由があるなら優先度を上げるわ」
結衣さまが身を乗り出した。
フローラリアの制服のレースがかすかに擦れる。
近すぎる距離に、逃げ場がなくなる。
私は喉の奥が引き攣るのを感じながら、彼女の視線を真っ向から受け止めた。
逸らせば、即座に「不要品」として捨てられる。
本当の理由。
それは、月華さまが隠し通したい「Web小説家」としての正体を知ってしまったから。
監視という名の鎖で繋がれているだけ。
けれど、それを言えばすべてが終わる。
月華さまの作家生命も、私の居場所も。
「それは……私にも分かりません。ただ、あの方に従うことしか……」
掠れた声で答えるのが精一杯だった。
守りたいもののために、嘘をつくしかなかった。
「……そう。飼い犬自身も、首輪の理由を知らされていない、と」
結衣さまは深くため息をつき、タブレットを閉じた。
ようやく呼吸を許された気がした。
「いいわ。月華さまの熱が冷めるまでは、最低限守ってあげる。けれど、これから派閥争いは激しくなるわよ。他派閥から見れば、貴女は『月華さまの唯一の弱点』に見えるでしょうね。……精々、気を付けなさい」
「……はい。ありがとうございます、結衣さま」
◇
サロンを辞去した私の足取りは、鉛のように重かった。
分かっていたはずだ。
月華さまにとって私は、偶然見つかった「インクの染み」みたいなもの。
選ばれたんじゃない、処理しきれなかったゴミなんだ。
(……それでも。どこかで期待してたのかな。私に、特別な価値があるんじゃないかって)
否定されたことで、自分の立ち位置がはっきりする。
私は主役じゃない。
ただの「ノイズ」だ。
夕闇が廊下に忍び寄り、私の影を長く引き延ばしている。
壁に映ったその影は、私自身よりもはっきりした形をしていた。
私は無意識に、月華さまに強く掴まれた手首を覆い隠した。
そこにはまだ、彼女の指の痕が脈打つように残っている。
「弱点」と呼ばれたとき、胸の奥がざわついたのは屈辱だけじゃなかった。
誰かの弱点であるという事実が、私を「必要」と結びつけている気がした。
私は自分の長い影を踏みしめるようにして、逃げるように寮へと急いだ。




