第8話 静謐な追跡者と、紙上の密室
翌朝、白亜の校舎に足を踏み入れた瞬間、ゾクりと背筋が凍った。
肌を刺す空気よりも早く、悟ってしまったのだ。
私は今や、全校生徒の「見世物」にされているのだと。
学園の三大派閥。
漆黒の『ブラックリリー』に続き、紅蓮の『レッドピオニー』からも呼び出された外部生。
前代未聞のニュースは、朝の霧のように一瞬で広まっていた。
教室のドアを開けると、視線の渦に飲み込まれる。
向けられるのは、熱を帯びた羨望と、刺のある言葉。
「ねえ、小井縫さん。朱雀院さまのサロンでは何を話したの?」
「あの方にエスコートされるなんて……どんな徳を積めばそんな幸運に恵まれるのかしら」
笑っているようで、その言葉はナイフのように鋭い。
私は引きつる頬を必死に動かし、愛想笑いを浮かべた。
(徳どころか……私は銀色の月の下で『駄犬』って罵られてるだけなのに……)
本当のことは絶対に言えない。
けれど、あの罵声を思い出すたびに背筋を駆け抜ける、甘い戦慄。
羞恥と高揚が混ざり合うこの感情を、私はまだ認めたくなかった。
ふと視線を感じて顔を上げる。
教室の隅、影の薄い窓辺に二人の少女が立っていた。
級長の高橋琴音さんと、お嬢様の二階堂亜美さん。
観察するような琴音さんの瞳と、扇子で口元を隠しながらも焦りを滲ませる亜美さん。
二人の視線は、私の動きを一つも見逃すまいと、じっと絡みついていた。
◇
休み時間。
廊下へ出た瞬間、背後に粘つくような気配を感じた。
床に映る私の影の後ろで、不自然に揺れる二つの影。
角を曲がったところで、不意に振り返ってみる。
案の定、慌てて立ち止まる足音が重なり、茶色のスカートが視界の端で翻った。
(性格はバラバラなのに、行動は一緒。不器用で可愛いわね。……でも、このままじゃ放課後の地下探索は無理だわ)
疑念は放置すれば毒になる。
私は隣を歩く柚月さんの袖を、そっと引いた。
「あの、柚月さん。今日の放課後、図書室で一緒に勉強しませんか?」
「ええ、喜んで。素敵な放課後になりそうですわね」
柚月さんの微笑みは、荒れた心を一瞬で鎮めてくれた。
◇
図書室の二階。
古い紙とインクの匂いが漂う、静かな自習室。
入り口でオドオドしている二つの影に、私は声をかけた。
琴音さんと亜美さんは、びくっと肩を跳ねさせる。
「べ、別に追っていたわけじゃないわ。級長として、不審な動きがないか見張っていただけよ」
「そうよ。わたくしも、たまたま勉強したかっただけ。席が空いていないなら、同席してあげてもよろしくてよ」
結局、四人で一つの机を囲むことになった。
最初は監視モードだった二人だが、ノートを開いた瞬間、優等生としてのスイッチが入る。
「ちょっと! この数式、公式の使い方がめちゃくちゃですわ」
亜美さんが扇子の先で、私のノートをぴしゃりと叩く。
近づいた彼女の髪から、シトラスの香りがふわりと漂った。
「これじゃ正解が出るわけありませんわ。もっと基礎をやり直しなさい!」
「本当ね。この英文解釈も情緒がないわ。有栖川さまの隣に立つなら、それに見合う教養を身につけなさい」
気づけば、スパルタ教育が始まっていた。
琴音さんの万年筆が鋭く赤線を引く。
容赦ないけれど、その指摘はどれも正確だった。
私の無知を正すことで、彼女たちは優越感に浸っているのだろう。
けれど、その表情は真剣そのものだ。
(……二人とも、私のことを疑っているはずなのに。放っておけないくらい、真っ直ぐで優しいんだわ)
努力を積み重ねてきた彼女たちにとって、私は「ズルい幸運児」に映るはずだ。
それでも見捨てずに教えようとする姿勢に、胸の奥が温かくなる。
「……ありがとうございます。お二人のおかげで、よく分かりました」
お礼を言うと、二人は一瞬顔を見合わせ、ぷいっと横を向いた。
夕日に照らされた耳たぶが、林檎のように赤くなっている。
「……勘違いしないで。一組の平均点を下げられるのが、我慢ならないだけよ」
「ええ、その通りですわ。クラスの調和のためですもの」
強がっているけれど、声はどこか柔らかい。
結局、秘密を暴かれることもなく、自習会は静かに終わった。
図書室を出ると、廊下は真っ赤な夕焼けに染まっている。
柚月さんが、楽しそうに笑った。
「ふふ、いいお友達ができましたね、南藻さん」
「……友達、なんでしょうか。でも、お二人の誠実さが少しだけ分かった気がします」
少しだけ心が軽くなった。
窓の外では、茜色が深い藍色に飲み込まれていく。
昼と夜が溶け合う、曖昧な時間。
平和なのは、ここまでだ。
明日はまた、派閥の闇が手招きしている。
『ブラックリリー』の冷徹な参謀――黒崎結衣さま。
彼女の呼び出しを予感させる不穏な気配に、私は薄暗い廊下の先をじっと見つめた。




