第10話 湯煙の聖域と、乙女の休息
寮の自室に戻っても、黒崎結衣さまに言われた「優先順位はゼロ」という言葉が、重い鉛のように胸の奥に沈んでいた。
私はただの監視対象。
代わりはいくらでもいる、価値のない存在。
月華さまにとって、私は消したくても消せない「事故の痕跡」でしかない。
あの人の美しい微笑みの裏にある計算を思うたび、自分が何者なのか分からなくなっていく。
その不安が、胸の内でひび割れのように広がっていった。
「……南藻さん。今夜こそ、この時間に大浴場へ行きましょう?」
私の暗い空気を察したのか、柚月さんがバスタオルを抱えて手招きしてくれた。
彼女の瞳には、包み込むような優しさが宿っている。
「ええ……そうね。お願いするわ」
掠れた声で、私は答えた。
今の私には、一人で冷たいシャワーを浴びるよりも、すべてを忘れさせてくれる「温もり」が必要だった。
肩書きも評価も脱ぎ捨てて、ただの自分に戻れる時間が欲しかったのだ。
◇
脱衣所で、重苦しい制服を脱ぎ捨てる。
ブラウスのボタンを外すたび、流れ込む湿った熱気が肌を撫でた。
一歩踏み出した大浴場は、深い湯煙に包まれていた。
高い天井から滴る水の音。
ここは、学園の序列を霧の向こうへ追いやる、乙女たちの聖域だ。
「あら、小井縫さん。ようやく大浴場に出てくる気になったのかしら?」
湯気の向こうから、聞き覚えのある高飛車な声がした。
二階堂亜美さんと高橋琴音さんだ。
二人は髪をまとめ、洗い場で濡れた肌を晒していた。
「あ、二階堂さんに、高橋さんも……」
思わず柚月さんの影に隠れる。
二人の視線が、遠慮なく私の体をなぞった。
眼鏡を外した琴音さんの視線はどこか危うく、亜美さんは自信ありげに鎖骨を突き出している。
「……ふん。脱いでしまえば、やっぱり『普通』ですわね」
亜美さんが挑発的に肩を揺らした。
琴音さんも、私の腹部をじっと見て冷淡に頷く。
「ええ。肉体の造作に関しては、私の計算通りね。少し安心したわ」
普通。
そう、私は救いようもなく普通なのだ。
けれど、その冷酷な評価が、今の私には温かい救いのように感じられた。
特別な人間にならなくていい。
ただの平民として、この豪華な湯を楽しむことは許されているのだから。
「さあ、南藻さん。背中を流してあげますね」
柚月さんに促され、私は小さな椅子に座った。
温かな湯が肩を伝い、石鹸の泡を介して彼女の指先が背中に触れる。
それは慈しむような、独占的な手つきだった。
「……南藻さん、最近ずっとため息が重かったから。心配していたんですよ?」
耳元で彼女の声が響く。
石鹸の香りと、彼女の体温が混じり合う。
「気づいてたのね。ごめんなさい、ちょっと自分を見失いそうになって」
「大丈夫ですよ。誰が何を言おうと、今、南藻さんの肌に触れているのは私なんですから」
背中に加わった微かな力。
それは私をこの場所に繋ぎ止める、思いやりと優しさのようだった。
「はぁ……極楽だわ……」
体を洗い終え、広い湯船に滑り込む。
首まで熱い湯に浸かり、柚月さんと並んで波紋を見つめた。
長い沈黙。
言葉は湯気に溶け、鼓動だけが響き合う。
「元気、出ましたか?」
上気した顔で、柚月さんが微笑んだ。
湯気に濡れたその笑顔は、迷宮のような学園で私を救う光に見えた。
「ええ。おかげで……明日も頑張れそう。ありがとう、柚月さん」
私たちは顔を見合わせ、静かに笑みを交わした。
冷徹な査定など、すべて熱い湯に溶かして流してしまいたかった。
今はただ、この包み込むような温かさと、隣にいる少女の体温に、すべてを委ねていた。




