第5話 湯煙の中の馴化(じゅんか)
胃の痛くなるような夕食が、ようやく終わった。
食器の触れ合う音にさえ緊張する空間から、私は逃げるように自室へ戻る。
無数の視線に晒され、心身ともにボロボロだった。
静かな部屋の絨毯に足を踏み入れると、ようやく深く息が吐けた。
本来なら、一日の終わりは学園自慢の大浴場で癒やされるはずだ。
お嬢様たちが肌を寄せ合う、秘密の楽園。
けれど、私にはハードルが高すぎる。
時計は夜の八時半。
廊下からは、お風呂上がりの生徒たちの楽しげな声が聞こえてくる。
石鹸のいい香りと、安らぎに満ちた足音。
私は彼女たちを避けるように、今日も部屋のシャワーで済ませようとした。
「……ふぅ。今夜もここだけにしましょう」
そう呟いて準備を始めたとき、不意に袖を引かれた。
控えめだけど、確かな力。
一瞬、心臓が跳ね上がる。
「南藻さん。今日も、お部屋で済ませるのですか?」
振り返ると、ルームメイトの東雲柚月さんが立っていた。
電気も点いていない暗い部屋。
彼女は制服姿のまま、ずっと私を待っていたようだった。
「ええ。今日は少し疲れてしまって。……柚月さんは、まだ行かないんですか?」
問いかけに、彼女はすぐには答えなかった。
ただ、長い睫毛が静かに揺れる。
「……南藻さん。ずっと大浴場を避けてますよね。もしかして、恥ずかしいんですか?」
図星だった。
けれど、理由は彼女の想像とは少し違う。
私は「ガチの百合オタク」なのだ。
本物のお嬢様たちが集まる聖域で、煩悩を抑えられる自信がない。
推したちを性的な目で見るなんて、ファンとして絶対にあってはならない背徳行為……。
だが、柚月さんは私の葛藤を「初々しい恥じらい」だと勘違いしたらしい。
「慣れが必要なようですね。……よろしければ、私と一緒に参りませんか? 今なら空いていますし、私がついていますから」
「柚月さんと、二人で……?」
「ええ。私と二人きりなら……大丈夫でしょう?」
暗がりで小首をかしげて微笑む彼女。
その優しさに抗えず、私は頷くしかなかった。
◇
大浴場は、まるで宮殿のような大理石の空間だった。
乳白色の湯気が立ち込め、月光が水面を銀色に染めている。
「あ、あの、やっぱり私……」
怖じ気づく私に、彼女は穏やかに微笑んだ。
「さあ、まずは背中を流し合いましょう?」
抵抗する間もなく、私は洗い場の椅子に座らされていた。
背後に回った柚月さんの、濡れた指先が肩に触れる。
「……南藻さんの肌、とても白くて綺麗ですね」
石鹸の泡を介して、彼女の手がゆっくりと肌を滑る。
私の華奢な肩をなぞるその手つきは、どこか丁寧で、執着すら感じさせた。
「そ、そんなことないです。柚月さんこそ、お美しいです……」
私は必死に前だけを向き、煩悩を消すために目を閉じる。
けれど、広がる香りと熱気に、理性が溶けていきそうだった。
「月華さまに選ばれたことで、これからもっと視線が厳しくなります。……でも、安心してください。寮に戻れば、私と二人きり。私はいつだって、南藻さんの味方ですから」
耳元で、彼女の声が低く響く。
慈しむように髪を洗うその手つきは、優しすぎて、逆に逃げ場のない圧迫感があった。
「……柚月さん。なんだか今日、距離が近くないですか?」
「そうですか? 同じ屋根の下で暮らす仲ですもの、当然ですよ」
ふと、彼女の手が止まった。
「……それとも、月華さまの方がよかったかしら?」
心臓がドクンと暴れる。
振り返ろうとした私の肩を、彼女の手が優しく、けれど強く押し止めた。
「ふふ、冗談です。……でも、忘れないで。貴女を一番近くで支えるのは、私だということを」
やがて湯船に浸かると、柚月さんは私の隣にぴたりと寄り添った。
広い浴場に、二人きり。
月華さまという「巨大な月」に怯えていた私の心。
それが、柚月さんの「温かな陽だまり」に溶かされていく。
(……もしかして、彼女も同じ趣味? いや、単に心配してくれてるだけよね)
自分に言い聞かせても、胸の火照りは収まらない。
私は、ルームメイトの優しさという名の檻に、静かに身を預けた。




