第40話 存在の証明、あるいは騎士の誓い
その日の昼休み。
私は月華さまを訪問するための、面倒な手続きを行っていた。
相手はこの学園の特権階級だ。友人同士のように「遊びに来たよ」なんて気軽さは許されない。
事務的な訪問許可証を受け取り、インクの匂いを嗅ぐ。
この無機質な紙切れが、私と彼女の距離を冷徹に突きつけていた。
◇
放課後、西日に染まる廊下。
私は緊張で胃を重くしながら、専用寮の最奥にある彼女の部屋へ向かった。
脳裏には、陽華さまの言葉がずっと心に残っていた。
『お姉さまは、パートナーを作るつもりはないって言ってたのに』
なぜ、彼女は私を選んだのか。
気まぐれか、それともただの遊びか。それを確かめなければ、私は一歩も前に進めない気がした。
ノックをすると、硝子細工のように冷たい声が響く。
「……入りなさい」
扉を開けた瞬間、濃厚な香りに包まれた。
月下香。夜に甘さを増すその香りが、思考を麻痺させる。
逆光の中、彼女は椅子に座っていた。
艶やかな黒髪と、漆黒のワンピース。彼女自身が「影」に溶け込み、今にも消えてしまいそうなほど存在が希薄に見える。
月華さまは本を閉じ、冷徹な瞳で私を射抜いた。
「何の用かしら。わざわざ手続きまでして私のもとに来るなんて、相応の理由があるのでしょうね」
私はスカートの生地を握りしめ、渇いた唇を開いた。
「……なぜ、私を妹に選んだのですか。パートナーは作らないと決めていたはずなのに」
彼女は不快そうに眉を寄せ、爪先で本をカツカツと叩いた。
「そんなことを聞きに来たの? 考えるまでもないでしょう。……相変わらず頭が悪いのね」
拒絶するように本に手を伸ばす彼女。
その時、影に控えていたメイドの雪菜さんが、静かに口を開いた。
「南藻さまもご存じでしょう。お嬢様は幼い頃から、ある“特質”をお持ちなのです」
「……雪菜」
月華さまが制そうとしたが、雪菜さんは構わずに続けた。
「お嬢様は、周囲に存在を認識されにくい体質なのです。陽華さま以外、誰もがお嬢様を意識から滑り落としてしまう。だからお嬢様は、世界から隔絶することを選ばれたのです」
私は息を呑んだ。
「姿隠しの姫君」という二つ名は、神秘性を讃える比喩などではない。
物理的に「世界から無視される」という呪い。
誰に声をかけても届かない、透明人間のような日々。
繋がりを願うことさえ、彼女には苦痛でしかなかったのだ。
◇
「それで……パートナーはいらない、と……」
私が呟いた、その時。
足音もなく、月華さまが目の前に立っていた。
193センチの長身が、天井ごとその威圧感で見下ろしてくる。
圧倒的な体格差。
彼女の影が、私を檻のように閉じ込めた。
「……駄犬の癖に。この私を理解しようなんて、生意気よ」
降ってきた声には、氷のような冷たさと、揺らぐ激情が混じっていた。
「お嬢様は、照れていらっしゃるのです」
背後ですまし顔の雪菜さん。
「っ……! 通訳など不要だと言っているでしょう!」
月華さまは頬を赤らめ、苛立ちを隠すように唇を噛んだ。
彼女の長い指が、私の顎を強引に掬い上げる。
強制的に視線を交差させられ、私は彼女の瞳という深淵を覗き込んだ。
「私はね、南藻。私を見つける者などいないと諦めていたわ。私の傍を誰もが通り過ぎ、輪郭さえ捉えられない。認識されなければ、私の存在は塵と同じ」
彼女の指が、確かめるように私の頬を滑る。
「けれど、貴女は私を見つけた。……だから、貴女は私の妹なのよ」
その言葉が、私の心臓を鷲掴みにした。
あの日、私が彼女を見つけたのは、偶然じゃない。
私が物語を愛し、彼女の書く言葉に魂を震わせていたから。
私の感性が、消えかけていた彼女の孤独な周波数を捉えたのだ。
◇
「……こっちにいらっしゃい」
月華さまは私の手首を掴み、円卓へと導いた。
逆光の中で神々しいまでの威厳を放ちながら、彼女は命じる。
「そこに、跪きなさい」
甘い命令に、私は抗わずに膝をついた。
153センチの私が跪き、193センチの彼女が座る。
その高低差が、私たちの主従関係を美しく描き出していた。
月華さまが、白磁のように滑らかな右手を差し出した。
「忠誠を誓いなさい。……私を、二度と見失わないと」
その声は震えていた。
それは命令ではなく、切実な懇願。
私は彼女をこの世界に繋ぎ止める「楔」なのだ。
私は彼女の冷たい手を両手で包み込んだ。
恭しく頭を垂れ、青い血管が透けるほど白い手の甲に、唇を寄せる。
びくり、と彼女の指先が跳ねた。
構わず、私は熱い唇を押し当てた。
柔らかい肌の感触と、月下香の香り。
私の体温が、彼女の冷たい肌へ移っていく。
それは服従であり、彼女を私の世界に刻むための所有の儀式でもあった。
「誓います。月華さま」
顔を上げ、濡れた瞳で彼女を見上げた。
姿隠しの姫君を守る、彼女だけの騎士として。
たとえ世界中が忘れても、私だけは彼女を見つけ続けよう。
月華さまは頬を染めて俯いたが、その口元には、見たことのないほど安らかな微笑みが浮かんでいた。
西日が私たちを包み、甘い毒のような香りが、永遠の誓いを祝福していた。




