第35話 百合の檻
月華さまの私室。
豪華な家具に囲まれた密室で、私は一枚のプロットを手渡された。
「設定はこうよ。主人公は転校生の下級生。彼女には、優しくて甘やかしてくれる先輩と、絶対的な主従関係にある『本命のお姉さま』がいるの」
月華さまの声は、解剖の講義のように淡々としていた。
その設定は、聖羅さまや詩音さまに構われ、月華さまに仕える今の私の状況にそっくりだった。
「今回は、本命のお姉さまが主人公の浮気を責め、独占欲をむき出しにするシーンよ」
「これ、モデルは……」
「フィクションよ。文句ある?」
涼しい顔の月華さま。これはお仕置きか、それとも作家としての好奇心か。
「配役は、私が『本命のお姉さま』で、貴女が『主人公』。立ちなさい」
◇
「スタート」
合図と共に、部屋の空気が一変した。
月華さまがゆらりと一歩近づく。
193センチの圧倒的な長身。
照明が彼女の背に隠れ、私は巨大な影に飲み込まれた。
「……遅かったわね。どこに行っていたの?」
低く、甘く、氷のように冷たい声。
「あ、あの、それは……」
台本通りに視線を逸らした瞬間、視界が漆黒のシルクに染まった。
月華さまの両腕が私を閉じ込め、心臓の音が響く位置に顔を埋められる。
背中に回された腕は、鉄の錠前のようにびくともしない。
鼻腔を満たす濃厚な百合の香りが、逃げ場のない檻のように私を閉じ込めた。
「嘘をついても無駄よ。……他の女の匂いがするわ」
耳元で囁かれ、背筋がゾクりと震える。
「貴女は誰のもの? 私の許しなく、よそ見をしていいと思っているの?」
身体の芯に響く声。
怖い。けれど、この絶対的な「檻」の中に引きこもることに、泥のような安心感さえ覚えてしまう。
◇
「……さて。今の瞬間の主人公の心情を、詳しく答えなさい」
月華さまが、不意に演出家の顔に戻って問いかけた。抱きしめたままで。
「えっ……」
「台本の『動揺する』だけじゃ描写が浅いの。今の貴女なら分かるでしょう。具体的になにを感じているのか、言語化しなさい」
その時、部屋の扉が静かに開いた。
「失礼いたします」
専属メイドの雪菜さんだった。
彼女は、私が巨大な月華さまに捕獲されている異様な光景を見ても、眉一つ動かさない。
(雪菜さん、助けて……恥ずかしすぎます!)
しかし、彼女は「お仕事、熱心ですね」と微笑むだけ。
「ほら、雪菜も待っているわ。早く」
月華さまが腕にぎゅっと力を込める。
「嫌悪? 恐怖? それとも――」
◇
私は観念した。
「……主人公は、後ろめたさを感じています」
震える声で、月華さまの胸元に顔を埋めたまま言葉を絞り出した。
「優しい先輩と過ごす時間は癒やしです。でも、心のどこかでずっと、本命のお姉さまのことを考えてしまって……」
これは役の台詞。私の本心じゃない。
そう言い聞かせても、熱い感情が溢れ出す。
「お姉さまは怖くて、いつも緊張します。でも……その厳しさに触れると、自分が誰の所有物なのか自覚できて、安心するんです。叱られることすら、愛されている証拠なんじゃないかって期待して……」
言い終えると、耳まで沸騰しそうだった。
雪菜さんの前で、なんてマゾヒスティックな告白をしているのか。
重い沈黙の後、月華さまが満足そうに息を吐いた。
「……いいわ。とてもリアルね」
◇
ふわり、と拘束が解けた。
「採用よ。今の言葉、そのまま使わせてもらうわ」
月華さまは余韻も見せず、すぐにデスクでペンを走らせ始めた。
私は膝の力が抜け、その場にへなへなと座り込んでしまった。
「お疲れ様です、南藻さま」
雪菜さんが絶妙なタイミングで紅茶を差し出してくれる。
月華さまはもう、物語の世界に没頭している。
私の体温も、必死の告白も、彼女にとってはただの「素材」に過ぎない。
少しの寂しさと、奇妙な安堵。
ただの演技のはずなのに、心をすべて暴かれたような、甘く気だるい疲労感が残っていた。




