第34話 執筆者の眼差し、白紙の演技要求
詩音さまとの穏やかなお茶会から一夜明けた、放課後の教室。
帰り支度をしていた私のポケットで、スマホが重く震えた。
画面には、月華さまからの短いメッセージ。
『寮に来なさい。すぐに』
簡潔すぎる文面に、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
ここ数日、私は主人である彼女を差し置いて、他派閥のサロンに出入りしていた。
聖羅さまに弄ばれ、詩音さまとお茶を楽しむ日々。
ダンスの練習は休みだと言われていた。
交流自体も禁止されていない。
けれど、私の肌にはまだ、柚月さんに扇子でなぞられた感触が「裏切りの烙印」のように残っている。
(バレてる……? 他の派閥と仲良くしたこと、怒られるのかな)
重い足取りで専用寮へ向かう。
月華さまの部屋の前に立つと、扉の向こうから張り詰めた気配が漏れ出していた。
今の彼女は、何かに猛烈に没頭している。
私は意を決してノックした。
◇
「……入りなさい」
部屋に入ると、月華さまは大量の資料をテーブルに広げていた。
完璧な髪からは後れ毛がこぼれ、万年筆を走らせるカリカリという音だけが響く。
「月華さま、参りました」
恐る恐る声をかけると、彼女が顔を上げた。
その瞳は、私を人間としてではなく、解剖台の標本を見るような冷徹な光を宿している。
「……? 少し、怯えているわね」
月華さまが立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってくる。
百九十センチを超える長身の影が私を覆い、百合とインクの香りが鼻を突いた。
「なに、やましい事でもあるのかしら? 私の目を直視できていないけれど」
見透かされるような視線に、思考が焼き切れた。
「い、いえっ! 浮気などしておりません! 私はいつだって月華さま一筋です!」
悲痛な叫びに、部屋が静まり返る。
月華さまはキョトンとした後、呆れたように溜息をついた。
「……はあ。相変わらず、小者ね」
どうやら、私の他派閥との交流なんて、彼女の関心事ではなかったらしい。
「まあ、いいわ。こっちに来なさい」
◇
月華さまは、ローテーブルから乱雑に紙束を掴み、私の胸元に押し付けた。
「これは……?」
「今、書いている小説の原稿よ」
手渡された原稿は、彼女の体温で生温かかった。
流麗だが鬼気迫る筆致。
月華さまは「月光淑女」の名で活動する作家でもある。
「今書いているシーンで、主人公の感情が掴みきれないの。論理はできているけれど、人間としての『生っぽさ』が足りないわ」
彼女は腕組みをし、値踏みするように私を見下ろした。
「だから、貴女。演じなさい」
「……えっ? お芝居、ですか?」
「そう。私の書いた台詞を読み、ト書き通りに動いて、感情を乗せてみせなさい。それを観察して、描写の参考にするわ」
あまりに一方的な無茶ぶりだ。
「そんな、演技なんてしたことありませんし……」
「ダンスも表現の一種でしょう。私のパートナーなら、それくらい出来て当然だわ」
拒否権なんてない。
彼女にとって、創作は自身の美学を形にする聖域なのだ。
「……分かりました。やらせていただきます」
◇
私は月華さまと向き合い、原稿を読み込み始めた。
赤い修正跡が、まるで血痕のように生々しい。
物語は、信頼していた相手への複雑な愛憎を描くシリアスなものだった。
(すごい……普段の冷徹さとは違う、煮えたぎるような情熱が込められてる)
これは単なる小説じゃない。有栖川月華という人間の内面そのものだ。
ウールの制服の下で、汗が伝う。
彼女の心の一部に触れる。
生半可な気持ちでは務まらない。
「読み込みは終わったかしら?」
彼女の手にはすでにメモ帳が握られ、ペン先が獲物を狙うように構えられている。
「もう少しだけ。……感情を、整理します」
ダンスのステップとは違う、内面を抉られる緊張感。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
彼女の創作の一部になり、彼女が求める「正解」を私の身体で表現する。
それは、ダンス以上に深い繋がりを感じられる行為に思えた。
私は大きく息を吸い込むと、原稿の中の「主人公」という深い底へ、ゆっくりと意識を沈めていった。




