第33話 芸術の陰、静かなる連帯
聖羅さまのサロンから解放された帰り道。
私と柚月さんの間に会話はなかった。
ふいに袖が触れそうになるたび、びくりと身を強張らせて距離を取る。
肌にはまだ、あの「禁断の遊び」の感触がまとわりついていた。
柚月さんの指が私をなぞった感触、それを見つめる聖羅さまの慈愛に満ちた瞳。
私たちは互いに顔を見ることさえできず、逃げるように自室へ戻った。
◇
翌日。
教室の空気は重く湿っていた。
柚月さんは世話を焼こうとしてくれるが、ふとした瞬間に頬を染めて視線を逸らす。そのたびに昨日の熱い吐息を思い出し、肌が粟立ってしまう。
そんな澱んだ空気を切り裂くように、一人の少女が教室に現れた。
「小井縫南藻さんと、東雲柚月さんはいますか?」
凛とした涼やかな声が響いた。
入り口に立っていたのは、剣道部のホープ・千葉夏凛さんだった。
彼女はブルーローズの次期トップ候補、如月詩音さまのパートナーでもある。
「放課後、お時間をいただけないでしょうか。折り入ってお願いがあるのです」
真剣な眼差しがまっすぐ向けられる。
私たちが聖羅さまのサロンに入るところを見かけて、声をかける決心をしたのだという。
夏凛さんは――
自分の直感を信じて、私に頼ろうとしたらしい。
◇
放課後、私たちは庭園のガゼボへと案内された。
歩く姿に一切の無駄がない夏凛さんは、道すがら静かに事情を説明してくれた。
「私のパートナー・如月詩音さまは芸術の天才です。ですが……極度の人見知りなのです」
端正な眉間に、ふっと陰が差す。
家柄も実力も申し分ない詩音さまだが、他人の視線に怯えてしまう。
来年トップを継ぐために、夏凛さんは少しずつ対人恐怖を克服させようとしていた。
「威圧感のないお二人なら、詩音さまも話しやすいと思いまして」
夏凛さんの指には、剣の稽古でできたマメがあった。
主人の弱点を補うために、自ら動く。
それは、ただ翻弄されるだけだった私や柚月さんとは違う――
強靭で、揺るぎないパートナーの姿だった。
◇
ガゼボには、漆黒の髪に白磁のような肌の少女がいた。
如月詩音さまだ。
テーブルにはスケッチブックとバイオリンケース。
微かに油絵の具の匂いが漂っている。
「あ……その……」
私たちが挨拶をすると、詩音さまは肩を震わせて俯いた。
雨に濡れた小動物のような脆さに、胸がきゅっと締めつけられる。
沈黙を破ったのは夏凛さんだった。
「詩音さま。描かれていた絵を、お二人に見せては?」
恥ずかしそうに開かれたスケッチブック。
そこには圧倒的な世界が広がっていた。
ただの庭園の素描。
なのに、光の粒子まで伝わってくるような緻密さ。
「すごい……写真より鮮やかです」
思わず漏れた私の声に、詩音さまは微かに頬を緩めた。
そこからは、ぽつりぽつりと会話が繋がっていく。
油絵の具の匂いが好きなこと。
バイオリンの弦が指に食い込む痛みが、逆に心を落ち着かせてくれること。
聖羅さまのサロンにあった毒や支配は、ここにはない。
ただ静かな風が吹き抜け、心が清らかな水ですすがれていくのを感じた。
◇
「……また、来てくれる?」
帰り際、詩音さまが見せてくれたはにかむような笑顔。
それは日陰に咲く花のように可憐で、胸の奥にそっと灯りをともした。
帰り道、私と柚月さんの足取りは自然と軽くなる。
「ブルーローズにも、色々な方がいるんですね」
柚月さんの目には、もう怯えの影はなかった。
夏凛さんのように、主人の弱さを支えようとするパートナーもいる。
完璧に見える月華さまだって、きっと私にしかできない支え方があるはずだ。
聖羅さまに植え付けられた歪んだ快楽は消え、代わりに、胸の奥に健全な渇望が芽生えていく。
隣を歩く柚月さんと、自然に笑い合う。
私たちの間を吹き抜ける風は、もう薔薇の香りではなく――
乾いた草木の匂いがして、どこまでも澄んでいた。




