第31話 怠惰な花冠、対等な共犯
図書館で浴びせられた「失敗して恥をかけ」という呪詛が、頭の中で不協和音となって響いている。
桃瀬さんの捨て台詞、周囲の嘲笑。
それらが予言のように思えて、私は居ても立ってもいられなくなった。
(もし本番で転んだら? 私のミスで、月華さまの完璧な経歴に泥を塗ってしまったら……)
気づけば私は、フローラリア専用寮へと走っていた。
今日は練習休みの予定。
主君の休息を邪魔するなど言語道断だが、震える足は止まらない。
私は祈るような気持ちで、月華さまのサロンの扉を叩いた。
「……まったく。今日は休みだと言ったはずよ」
扉の隙間から現れた月華さまを見て、私は息を呑んだ。
完璧に巻かれた髪は緩くリボンで束ねられ、足元は柔らかなルームシューズ。
鎧を脱いだ「休日モード」の彼女は、あまりに無防備で、見てはいけないものを見てしまったような背徳感があった。
「申し訳ありません! でも、どうしても不安で……少しだけ、ステップの確認をお願いできませんか」
私が必死に頭を下げると、月華さまは呆れたように溜息をついた。
「貴女、本当に……小者ね」
言葉は冷たいが、不思議と拒絶の響きはなかった。
「パーティなんて所奏は顔見せ。私たちがそこに立っているだけで価値があるの。貴女は私の装飾品として、堂々としていればいいわ」
「で、ですが……」
「はぁ……分かったわ。三十分だけよ。その代わり、本番では完璧な仮面を張り付けなさい」
静寂の中、衣擦れの音だけが響く三十分。
月華さまの手はいつもより少し温かく、握り方は微睡むように優しかった。
その「生身」の感触が、パニック寸前だった私の心をゆっくりと鎮めてくれた。
◇
月華さまの部屋を出て廊下を歩いていると、角から弾むような足音が近づいてきた。
ベリーショートに小麦色の肌。
陸上部の友人、佐々木怜奈だ。
彼女は早乙女楓さまのパートナーに選ばれている。
「あ、南藻! 良いところで会ったー」
怜奈は太陽のような笑顔で駆け寄ってくると、いきなり私の手首を掴んだ。
「ちょっと手伝って! 一人じゃ手に負えない」
「えっ、ちょっと怜奈!?」
引きずられていった先は、ブラックリリーの紋章が刻まれた一室。
早乙女楓さまの私室だ。
怜奈はノックもせず、無造作に扉を開け放った。
「楓さまー、助っ人連れてきましたよー」
「……んぅ……」
薄暗い部屋の奥から、気だるげな声がした。
ソファの上で、一人の少女が液体のようにだらしなく寝そべっている。
早乙女楓さま。
床に届きそうな黒髪を適当に結び、はだけた襟元からは白い鎖骨が覗いている。
「あ、怜奈だぁ……。一緒にゴロゴロしようよぉ」
起き上がる気配すらない。
月華さまや咲夜さまの「高貴なオーラ」とは真逆の、熟れすぎた果実のような退廃的な空気。
「しませんよ! あと二週間でお披露目なんですから。南藻、手伝って。この人をしっかりと立たせるから」
「えっ、私が……!?」
戸惑う私を無視して、怜奈が叫ぶ。
「ほら、こっちの腕持って! ズルズル落ちてくから!」
私は恐る恐る、楓さまの左腕を掴んだ。
◇
触れた瞬間、心臓が跳ねた。
楓さまの腕は驚くほど冷たく、骨がないのかと思うほど柔らかい。
対して、反対側を支える怜奈の腕は熱く、引き締まっている。
左右から伝わる対極の質感が、私の中で生々しく混ざり合う。
「はい、いち、にの、さん!」
「あーれー……」
泥のように重い身体を引き起こし、ようやく直立させる。
ボサボサの髪にとろんとした瞳。
これがブラックリリーの令嬢だなんて、誰が信じるだろう。
「もう一生分のカロリー使った気分……。じゃあ、ちょっとだけだよ?」
楓さまが渋々と構えを取った。
音楽が流れると、死人のような怠惰さが嘘のように、彼女は流麗に踊り始めた。
水の中を漂う魚のような、重力を感じさせない動き。
才能という名の暴力。
ただ、魂が致命的に面倒くさがりなだけだ。
途中、私が相手をすることになった。
重ねた手はひんやりとして、私の熱を奪っていく。
彼女のリードは「沼」のようだった。のらりくらりとこちらの動きを受け流し、底なしに引きずり込む。
「君、ガチガチだねぇ。もっとリラックスしなよ。たかがお遊びなんだからさ」
耳元の囁きは甘い毒のようで、月華さまの言葉とは違う温度で私に染み込んだ。
◇
練習を終え、楓さまは再びソファへ沈没した。
怜奈が甲斐甲斐しく彼女の髪を整えている。
「ごめんね、南藻。付き合わせちゃって」
「ううん。……すごいね、怜奈は。フローラリア相手に、あんなにぐいぐい行くなんて」
パートナーは絶対的な主従関係だと思い込んでいた。
けれど、この二人にあるのは世話焼きの飼育員と、手のかかる珍獣のような関係。
対等な「共犯者」の匂いがした。
「あはは、楓さまは放っておくとずっと寝てるから。私がお世話してあげないとね」
怜奈はカラッと笑った。
衝撃だった。
パートナーの形は一つではないのだ。
(私も、いつか……)
月華さまをだらしなくさせるのは無理でも、彼女の「重み」を怯えずに支えられるようになりたい。
彼女が鎧を脱いで体重を預けてきたとき、微動だにせず支えきれる「器」に。
それは、「小者」からの卒業を誓う、初めての強い渇望だった。
「ありがとう、怜奈。すごく勇気が出た」
「え? 何もしてないけど……まあ、本番頑張ろうね!」
パチン、とハイタッチ。
楓さまの部屋を出る私の足取りは、来る時よりもずっと軽くなっていた。




