第30話 王子様の降臨、交錯する理想
腕に抱えた古書の重みが、しびれる指先に伝わってくる。
図書館で落ち着きを取り戻したのも束の間、中庭の光景が私の心を引き裂いた。
噴水のそばで、三人の女子生徒が一人の少女を囲んでいる。
中心にいたのは、一年生の石田千里さん。
小動物のように震える彼女の目は、涙で溢れそうだった。
「……ねえ。レッドピオニーの頂点、朱雀院咲夜さまの隣に、貴女みたいな『何もない子』が並ぶなんて分不相応だと思わない?」
リーダー格の少女が嘲笑う。
「咲夜さまは学園の至宝よ。貴女が隣に立つだけで、完璧な調和が濁るの」
千里さんは風呂敷包みを必死に抱きしめ、ただ謝ることしかできなかった。
「あ、あの……ご、ごめんなさい……」
選ばれなかった者たちの、執拗な嫉妬。
見て見ぬふりをするのが、一番の保身だ。
けれど、震える彼女のうなじを見た瞬間、私は自分のチョーカーに触れていた。
(……ここで逃げたら、私を選んだ月華さまの誇りまで汚すことになる)
私は深く息を吸い、月華さまに叩き込まれた「重心」を意識して、背筋を伸ばした。
◇
「……ごきげんよう。皆様、熱心なお話し合いのようですけれど」
凛とした声を投げると、三人が弾かれたように振り返った。
「あ、南藻さん……」
千里さんが、救いを求めるような瞳で私を見る。
「あら、小井縫さん。有栖川さまのパートナーだからって、出過ぎた真似じゃないかしら?」
鋭い視線。
私は彼女たちの前に一歩踏み出した。
「ご心配なく。私たちは、お姉さまたちの審美眼を汚さぬよう、血の滲む修練を重ねております。……外野の皆様が案ずる必要はございませんわ」
精一杯の微笑み。
けれど、心臓の鼓動が喉元までせり上がっていた。
案の定、彼女たちの敵意に火がついた。
「何よ、有栖川さまの気まぐれで拾われたくせに」
「随分と偉そうね」
三人がジリジリと距離を詰めてくる。
言葉の暴力に視界が揺らぎ始めた、その時だった。
◇
「――私の可憐な妹に、何か用かな?」
夕暮れの空気を震わせる、重厚で涼やかな声。
空間の温度が一瞬で変わった。
そこにいたのは、一人の「王子様」だった。
朱雀院咲夜さま。
百七十六センチの長身。
研ぎ澄まされた肢体。
黒いシルクのワンピースを纏ったその姿は、夕日に焼かれて妖しく光っている。
「す、朱雀院さま……!」
さっきまでの残忍な少女たちが、一瞬で頬を赤らめる。
咲夜さまは、大人の余裕を感じさせる苦笑を浮かべた。
「忠誠心は嬉しいけれど、私の『妹』を怖がらせないでほしいな。彼女たちへの不敬は、私への挑戦として受け取るよ?」
逃げ場のない熱を孕んだ声音。
月華さまの「氷」とは違う、すべてを焼き尽くす「火」のカリスマだった。
「も、申し訳ありませんでした……っ!」
少女たちは逃げるように去っていった。
◇
「やあ、南藻ちゃん。助けてくれてありがとう。とても凛々しかったよ」
咲夜さまが屈託のない笑顔を向けてくる。
「い、いえ! 私は何も……」
「そんなことはない。君が立ち上がったことが嬉しいんだ」
咲夜さまは優雅にウィンクをすると、泣き出しそうな千里さんの前で膝をついた。
「千里、怖かったね。……遅くなってごめん」
柔らかなハンカチで彼女の涙を拭い、大きな手でその掌を包み込む。
安堵した千里さんの体が、咲夜さまの胸に預けられた。
咲夜さまは彼女の背を優しくあやすように撫でる。
「さあ、行こうか。部屋に温かいお茶とお菓子を用意してあるんだ。まずはゆっくり休もう」
「……はいっ!」
幸せそうに頷く千里さん。
二人は並んで、夕日の廊下を慈しむように歩いていった。
◇
私はその光景を、胸の疼きと共にただ見送っていた。
月華さまとの関係とは、あまりに違う。
月華さまは私を導いてくれる。
けれど、それは常に「支配」と「命令」の刃を突きつけられた緊張感の中だ。
あんな風に。
優しく守られ、涙を拭われ、甘やかされる関係があるのだとしたら。
「……いいなぁ」
喉から本音がこぼれ落ちた瞬間。
首元の銀のチョーカーが、いつもより冷たく、ズシリと重く感じられた。
まるで、月華さまが私の浮ついた羨望を咎めるために、喉を締め上げたかのような錯覚。
私は主君への罪悪感を抱えたまま、重くなった足取りで再び歩き出した。




