第29話 静寂の猶予と、持たざる者の宣告
放課後のチャイムが鳴る。
私は無意識に席を立ち、いつもの練習場所へと足を向けかけた。
けれど、右足が止まる。
今日から数日間、月華さまとのダンスレッスンは「休息日」だった。
「これ以上詰めても、貴女の貧弱な神経が焼き切れるだけだわ。身体を休めなさい」
昨日の去り際、月華さまは冷徹な声でそう告げた。
けれど、長い睫毛の奥には、わずかな満足感が揺れていた気がする。
雪菜さんの太鼓判もあり、私はようやく「甘美な地獄」から一時的に解放されたのだ。
私は久しぶりに図書館へ向かうことにした。
選ばれて以来、放課後のすべてを一九三センチの支配者に捧げていた。
インクと埃の匂いが、今はひどく懐かしい。
◇
廊下を歩きながら、無防備な首筋に触れる。
指先に伝わる銀の冷たさ。
解放感はあるのに、胸の奥には風穴が開いたような空虚感があった。
あの鋭い視線。
罵倒に近い指導。
それがない今、肌が頼りなく震えている。
理不尽なプレッシャーさえ、いつの間にか私の日常に欠かせない毒になっていた。
(……贅沢な悩みね。せっかくの自由時間なんだから)
感傷を振り払い、私は中庭の通路に差し掛かった。
そこには、華やかな笑い声の一団がいた。
中心にいるのは、桃瀬百乃さん。
「妹にしたいランキング」三位の有名人だ。
努力と社交術でのし上がった彼女だが、今回のパートナー選定では誰からも名前を呼ばれなかった。
「先輩のリボン、素敵ですぅ!」
「百乃ちゃんこそ、今日も可愛いわね」
糖度の高い声。
完璧な「妹」の演技。
選ばれなかった屈辱を隠し、彼女は必死に自分の居場所を繋ぎ止めている。
それに引き換え、私はどうだ。
ランキングは圏外。
愛嬌も社交術もない。
ただ偶然、月華さまという「怪物」の気まぐれに捕まっただけ。
努力の塊である百乃さんと、何もせず選ばれた私。
その対比に罪悪感を覚え、私は息を潜めて通り過ぎようとした。
◇
数メートル進んだところで、背後の笑い声が止まった。
「先輩、失礼しますね」
カツ、カツ、カツ。
攻撃的な靴音が追いかけてくる。
「ちょっと。……待ちなさいよ、小井縫南藻」
振り返ると、そこには道化の笑顔を剥ぎ取った、無表情な百乃さんがいた。
西日に照らされた瞳が、暗い光を宿して私を射抜く。
「……なにかしら?」
詰め寄る彼女から、バニラの香水の匂いがした。
彼女の視線が私の顔から下がり――
首元のチョーカーで止まる。
親の仇でも見るような、激しい嫌悪がそこにあった。
「あんたのことが、生理的に気に入らないわ」
唐突な宣告。
具体的な文句ですらない、存在そのものへの拒絶。
「なんで、あんたなの? ランキング圏外で、何の取り柄もないくせに。私がどれだけ努力してきたと思ってるのよ」
彼女の声は怒りで震えていた。
三位の自分を差し置いて、運だけで聖域に上がり込んだ私が許せないのだろう。
「ダンスパーティーで、せいぜい恥をかくといいわ。みんな、あんたが無様に転んで自分の顔に泥を塗る瞬間を楽しみにしてるんだから」
呪詛を吐き捨てると、彼女は鮮やかに踵を返した。
次の瞬間には「お待たせしましたぁ!」と鈴を転がすような声で、先輩たちの輪に戻っていく。
◇
残された私は、廊下で立ち尽くしていた。
周囲の生徒たちの視線が、冷たい羽虫のように肌を這う。
(気に入らない、か……)
それは彼女一人の感情ではないだろう。
何百人もの嫉妬と殺意が、観客席の暗闇から私の失敗を待ち望んでいる。
そんな気がする。
ダンスパーティーは、単なるお披露目じゃない。
私が月華さまの所有物として相応しいか試される、血の流れない「処刑場」だ。
図書館へ向かう足が重くなる。
けれど、不思議と恐怖だけではなかった。
「恥をかけ」と言われた反発心が、胸の奥で熱く燻り始める。
(転んだりなんか、しない。絶対に)
掌に爪が食い込むほど拳を握る。
私個人のプライドのためじゃない。
私を選んだ月華さまの審美眼が、間違いだったとは誰にも言わせない。
私は顎を引き、背筋を伸ばした。
重心を落とし、丹田に力を込める。
身体が覚えている。月華さまに叩き込まれた、美しい姿勢だ。
百乃さんの悪意は、冷たい覚悟に変わった。
私は鋭く息を吐き、再び歩き出す。
物語を楽しむためではなく、来るべき戦いに備えて心を研ぎ澄ますために、私は図書館の静寂を求めた。




