第26話 浮気なワルツ、拗ねる支配者
サロンを支配していた、息もできないほどの重苦しい沈黙。
それを切り裂いたのは、陽華さまの無邪気な提案だった。
「お姉さま、教え方が硬すぎ。……見てよ南藻ちゃん、足が震えてる。ちょっと私に貸して?」
陽華さまは、月華さまの返事を待たずに私の手首を掴んだ。
バスケで鍛えられた熱い手のひら。
そのマメの感触から、彼女の生命力が伝わってくる。
「陽華、勝手な真似はやめなさい。これは私とパートナーの問題よ」
月華さまが低く地を這うような声で威嚇する。
「でも、お姉さまは天才すぎて、人に教えるっていうのは向いてないわ。ね、南藻ちゃん、一度私と踊ってみよう?」
強引に手を引かれ、私は困惑してよろめいた。
振り返ると、一九三センチの巨像が立っていた。
月華さまは眉間に皺を刻み、怒りに燃える瞳でこちらを睨みつけている。
結局、彼女は「……好きになさい」と吐き捨て、壁際に退いた。
独占欲の月華さまと、強引な陽華さま。二人の巨人に挟まれ、私の心臓は止まりそうだった。
◇
陽華さまが、自然な手つきで私の腰を抱き寄せる。
ふわりと、汗と制汗剤が混じった健康的な匂いがした。
「大丈夫、力を抜いて。私が君に合わせてあげるから」
音楽が始まると、そのリードに驚いた。
月華さまのリードが、一寸の狂いも許さない「鋼の檻」なら、陽華さまは自由な「春の風」。
彼女は私の呼吸を読み、ステップのズレをミリ単位で修正してくれる。
「そう、上手。次はこっちに体重を預けてみて」
耳元の明るい声に従ううちに、あんなに重かった足が魔法のように軽くなる。
(……踊れてる。私、今ちゃんとダンスをしてる!)
月華さまとの窒息しそうな練習では味わえなかった純粋な楽しさ。
憧れの陽華さまと重なり合う多幸感。
壁際から突き刺さる月華さまの視線を感じながらも、私はその心地よい流れに身を委ねていた。
◇
一曲が終わる頃、私の動きは見違えるほどスムーズになっていた。
「ほら、完璧! 南藻ちゃん、ちゃんと出来たじゃない!」
憧れの「推し」からの真っ直ぐな肯定。
顔がリンゴのように熱くなる。
「あ、ありがとうございます……! 陽華さまが教えるのがお上手なので……っ」
甘い高揚感に浸っていた、その時だった。
「……もう、十分でしょう」
背後から恐ろしい冷気が迫り、二の腕を強く引かれた。
気づけば、私は月華さまの万力のような腕の中に引き戻されていた。
背後から覆いかぶさる一九三センチの影。
彼女は私を「捕獲」するように抱き込み、陽華さまを鋭い眼光で威嚇した。
背中に当たる彼女の鼓動が、激しく波打っている。
「私が教えた時は……一度も、そんな顔を見せなかったわね」
耳元で響く声は低く、どこか震えていた。
私の首筋に、彼女の乱れた吐息がかかる。
「お姉さま、顔が怖いって。南藻ちゃんが怯えてるわよ」
「黙りなさい、陽華。貴女は帰りなさい。……南藻、貴女もよ」
腕の力がさらに強まる。
痛いほどに。
「私が教えた時は、わざと手を抜いていたんでしょう? ……そうだと言いなさい」
恐る恐る見上げた月華さまの顔に、いつもの支配者の面影はなかった。
唇を噛み、悔しげに目を伏せる姿。
それはお気に入りの玩具を奪われそうになった子供のような、剥き出しの「嫉妬」だった。
あの絶対的な巨人が、今、私一人の反応に一喜一憂して拗ねている。
「あはは、お姉さまの嫉妬なんて久しぶり。南藻ちゃん、あんまりいじめないであげてね」
陽華さまはいたずらっぽくウィンクして、部屋を去っていった。
◇
静まり返ったサロン。
月華さまは私を離さない。
冷たい香水の香りが私を包むが、伝わってくる体温は驚くほど熱い。
「……陽華の方が、良かったのかしら」
ぽつりと落とされた言葉。
そこには傲慢さなどなく、一人の人間としての弱々しい不安が混じっていた。
私は、胸の奥で甘く暗い感覚を覚えた。
完璧な支配者が、なりふり構わず私を繋ぎ止めようと必死になっている。
その姿に、抗いがたい愛おしさを感じた。
同時に、この巨大な人を自分が揺さぶっているという事実に、ゾクゾクするような歓喜が走る。
「そんなことはありません。……ただ、月華さまに嫌われているかと思って緊張していただけです」
そう答えると、月華さまはふいと顔を背けた。
黒髪の間から見える真っ白な耳が、夕焼けのように赤く染まっている。
(ああ。私、この人を乱すことができるんだ)
圧倒的な強者を、自分一つでここまで動揺させられる。
それは、初めて芽生えた加虐的なまでの「優越感」だった。
「……練習を再開するわよ」
月華さまが私を向き合わせる。指先が微かに震えていた。
「今度は、絶対に足を踏まないで」
強がりの言葉を口にしながら、彼女は壊れ物を扱うように、けれど二度と逃がさないという執着を込めて、私の手を取り直した。
鏡の中に映る、巨大な影と小さな私。
その姿は、少しだけ「本当のパートナー」に近づいたように見えた。




