四章 消えた令嬢
明け方。静まり返ったランドレン家のゲストルームでメリッサは眠れずにいた。ベッドの上で寝転んだり、窓から庭を眺めたりして過ごしたが、そわそわと落ち着かない。
このままクインベリー家に行って、セオドアと仲を深めて、そうして結婚すれば一生田舎で暮らせる。……はずがない。彼と結婚すれば公爵夫人だ。
彼が許可しても、世間が、女王が許さない。
この家にいても変わらない。
家族がいても、知らない脅威に脅かされて、まともに眠れない。田舎に帰ってずっとひとりでいればいいのだろうか。その方が世間でなんと言われても気にならないかもしれない。一生ひとりで家族とだけで過ごす。兄が許してくれるなら。
――その方がいいかもしれない。メリッサは誰といても迷惑をかけるだけ。
涙が溢れたとき、ドアをノックする人がいた。
「まだ起きているんですか」
ドアを開けると、ジェラルドが立っていた。メリッサはドアの隙間から顔を見せた。
「……どうして」
「庭で何かないかと探していたら、窓からあなたが見えました。ホットミルクです。落ち着いたらやすんで」
ジェラルドがメリッサの手にマグを握らせ、背を向けた。メリッサはその背に話しかけた。
「クインベリー家に行くの」
「聞きました。その方がいい。きっと安全です」
「あなたは?」
「私は行きません。ここで犯人探しをします」
「私のそばにいるのが仕事だと」
「セオドアがいます」
「でも」
メリッサは片足を踏み出した。
「……でも、あなたが必要だわ」
「なぜ?」
「わからない……けど、あなたといるのが一番落ち着く」
ジェラルドがゆっくりとメリッサに近付く。メリッサは半歩足を戻した。
「ホットミルクなら、セオドアも作れます」
「ミスター・スコットが?」
聞き返すと、ジェラルドは少し考えてから訂正した。
「……作れないか」
「きっとね」
メリッサとジェラルドはくすくす笑った。
「あなたはゆっくり休めるところにいるべきです。私が犯人を捕まえます。きっと」
「……わかった。あなたもやすんで」
ジェラルドが頷いて、階段を降りていく。メリッサはその背中が見えなくなるまで見送った。
*
日がすっかり上りきった午後。メリッサたちを乗せた馬車はメイフェアで最も大きな屋敷の前に到着した。
侍従たちが荷物を下ろしていると、屋敷の中からセオドアと公爵夫人が出迎えにきた。オーガスタが礼を取るのに合わせてメリッサも膝を折る。
「公爵夫人。ミスター・スコット。こんにちは」
「よくいらしてくださったわ」
「こんなに短時間でお邪魔するご無礼をお許しください」
「気にしないで。こういうときは助け合わなくちゃ。気兼ねしないで、本当のうちだと思って過ごしてね。ミス・ランドレン」
「ありがとうございます」
公爵夫人がオーガスタと腕を組んで屋敷の中へ連れていく。セオドアとメリッサは母親たちの背中を見送って、やっと口を開いた。
「……眠れた?」
セオドアの声に心配が滲む。メリッサは少し逡巡して、正直に答えた。
「あまり眠れなかった」
「そうだよね。当たり前だ。少し眠る? きみのベッドルームへ案内するよ」
「まだ平気です」
「じゃあ、散歩する? そうだ、ハイド・パークへ行こうか。馬に乗る?」
セオドアが気遣ってくれているのを感じて、メリッサは頷いた。セオドアが自らゲストルームに案内してくれ、エミリーが慌てて乗馬服を用意する。
「下で待ってる」
セオドアはそれだけ言って部屋を出ていった。ゲストルームはクリーム色の壁紙に、濃いブルーのカーテンが掛けられていた。
「お優しいですね、公爵子息さま」
「うん」
「ハンサムですし、背も高いですし、爵位も約束されていて、性格も言うことなし! こんな完璧なご縁があるんですねぇ」
エミリーが洋服を着つけながら興奮したように言う。メリッサはため息をついた。
「え? 何かご不満でも?」
「そうじゃないけど。混乱してるの。私、ここに来て本当によかったのかな」
「どうしてですか? 夫人もご子息も、歓迎してくださってるじゃないですか。お嬢さまだから呼んでくださったんですよ」
背中のリボンが結ばれ、髪が整えられる。その上に帽子を乗せられ、準備は完了した。
「今日もお美しいですわ」
鏡の中のメリッサを見つめてから、エミリーはメリッサの手を引いた。
「部屋の中は整えておきます。いってらっしゃいませ」
階段を下りると、玄関ホールにセオドアが待っていた。外にはすでに馬が二頭用意されており、メリッサは馬に挨拶をしてからその背に乗った。
「乗り慣れてるね」
「馬と犬しか友だちがいなかったから」
「私とは友だちになれそう?」
「あなたが望むなら」
「じゃあ、もう友だちだ」
馬をゆっくり進めていると、ハイドパークの豊かな緑はすぐに見えてくる。
ロットン・ロウに到着すると、乗馬を楽しんでいた紳士たちの視線がメリッサとセオドアに向いた。
「……ご友人ですか?」
メリッサが訊ねるとセオドアは頷いた。紳士たちがセオドアに近付いてくる。
「よお、セオドア。こちらは噂の?」
「やあ。乗馬か? こちらはミス・メリッサ・ランドレン」
「こんにちは」
「これからセントラルクラブで飲むんだ。来ないか?」
「いや。今は令嬢のナイトだから。しばらくは行けない」
メリッサは目を瞬いた。
「どうして? せっかくのお誘いなのに」
セオドアはメリッサをちらりと見て、紳士たちに手を振った。
「悪いな。また今度」
馬首を前に向けて、セオドアはメリッサを促した。セオドアの馬が小走りになったので、メリッサもそれに続いた。
夏の爽やかな風を感じながら馬の揺れをしばらく楽しんでいると、セオドアが木立ちの中に入っていく。馬のスピードを落として、二人は散歩の体勢になった。
セオドアの金の髪が木漏れ日でキラキラと光っている。
「どうしてお誘いを断ったんですか?」
「さっきの?」
「私なら大丈夫なのに」
メリッサがそう言うと、セオドアは馬を止めた。
「今、きみを一人にしたら、後悔しそうだから」
「どういうこと?」
「友人たちとはいつでも遊べる。でも、きみの心は今じゃなければ手に入らない」
メリッサは黙り込んだ。きみの心がほしい、とは、随分情熱的だ。耳が赤くなるのを止められなかった。
「……本心?」
「鋭いな。私にもまだわからないけど、きみといるのは苦じゃない。きみが我が家にいる間に、この気持ちを確かめたい」
セオドアは馬から降りて、馬上のメリッサの手を取った。そして、甲にそっと唇を落とす。
「……きみが許してくれるなら」
*
「お嬢さま、お手紙です」
エミリーの報告に、メリッサはびくりと肩を揺らした。
「バーナードさんからですよ」
「……ジェラルドさん?」
手紙を受け取り、早速中を開く。几帳面な字体で綴られた手紙には、ランドレン邸への侵入者の調査情報が書かれていた。
《ミス・ランドレン。
ゆっくり休めていますか? 心穏やかに過ごせていることを願っています。
私は今、お嬢さまの部屋に侵入した人物を調べています。
庭には逃亡した際の足跡しか見つけられませんでした。よって、侵入者は屋敷の正面から中へ入った可能性が高いと考えています。招待客か、もしくは招待客に紛れて入ったのでしょう。
具体的な人物はまだ絞り込めていませんが、必ず突き止めます。
お嬢さまが笑顔でお屋敷に戻ってこられるように。
ジェラルド・バーナード》
短い手紙を三度読み直したところで、開け放たれたドアを叩く音がした。
ソファに持たれていた背を起こすと、そこにはセオドアがいた。
「母さんたちはカフェに出かけて行ったよ。きみは、退屈じゃない?」
「公爵夫人に本を借りたの」
「また、恋愛小説だろう。母の趣味だ。きみは好き?」
「興味深いわ」
「やっぱり女性は好きなんだなぁ」
セオドアがメリッサのすぐ隣に座った。メリッサが驚いて見ると、セオドアは笑う。
「近い?」
「……近い」
セオドアは人ひとり分開けて座りなおした。
「それで? きみはどういう男が好き?」
「ええ。ええと……」
「好きな台詞を教えて。言ってみるから」
メリッサは会話の変えようとして、読んでいた手紙をセオドアに渡した。
「そ、それより。今、屋敷に侵入した犯人を追ってくれてる報告がきたの」
セオドアが手紙を受け取って、中を読んだ。
「……ジェラルド」
「あ! その、今、調べてくれてるの」
「話したことないって言ってなかった?」
「あまり話したことはない、よ。本当だもの。そもそも、ジェラルドさんと知り合ったのは、ロンドンに来て、事件が起こるようになってからなの。この事件から私を守るために、父がジェラルドさんを呼んだの」
「《お嬢さまが笑顔で戻ってこられるように》」
「深い意味はないわ。親切なひとなの。あなたの弟さんは」
セオドアの疑り深いブルーの瞳を見つめて、メリッサは口を滑らす。
「ホットミルクを淹れてくれたの。蜂蜜を入れて。あなたは作れる? ホットミルク」
「……ホットミルク?」
しゃべればしゃべるほど、空回りする。メリッサは俯いた。どうしてこんなに焦って、困って、誤魔化そうとしているのだろうか。
「……ホットミルクが好き?」
「子どもみたいよね」
「ジェラルドが作ったの?」
「そうよ」
「……じゃあ、私も練習してみよう。飲んでくれる?」
不意に、セオドアが人差し指でメリッサの頬に触れた。メリッサは驚いて固まった。
家族以外の男の人に触られたのは初めてだった。
*
数日後。この日は珍しくセオドアの友人が屋敷に来ていて、メリッサはひとりで早めに部屋で休んでいた。
クインベリー家に来たばかりの頃はまだ眠りが浅かったけれど、この数日はぐっすり眠れている。
真っ暗な部屋の中、手探りで立ち上がり、カーテンを開けた。月明りでぼんやりと手元が見えたので、手燭をつけようとしたそのとき。
目の前に知らない男がいた。




