五章 結婚相手は
追ってきた馬車がクインベリー家の前に停まったとき、ジェラルドは嫌な予感がした。
クインベリー家にいればメリッサは安全だ。そう思ったけれど、胸騒ぎがおさまらない。ジェラルドは馬を下りて門に繋ぐと、馬車の隅に身を潜めた。
深夜。馬車の主人はなかなか出て来なかった。盛り上がっているのだろうか。もしかして、そのまま泊まるのか?だとすると、ここでひと晩を明かすことになるのか。
覚悟を決めたとき、門の軋む音がして、男が出てきた。
男は、シーツで包んだ大きな荷物を肩に担いでいた。明らかに、人。
男が馬車に大事そうに荷物を入れた。御者を呼びに行ったのか、男は屋敷に戻っていく。
ジェラルドは急いで馬車の中に入った。
シーツを剥がすと、やはり――轡を嚙まされたメリッサがいた。
「お嬢さま……!」
ジェラルドがメリッサを起こし、シーツをすべて取り去ると、馬車の外に連れ出した。屋敷の明かりでメリッサの顔がはっきりと見える。
白い寝巻の首に赤い染みが見えて、ジェラルドはメリッサの肩を掴んだ。
「お怪我を?」
メリッサはショックで震えている。よく見ると、メリッサの首筋にはナイフが当たったような細い傷があり、血が滲んでいた。
「――屋敷に入りましょう。手当てを……」
「おい!!」
メリッサを支えて歩き出したジェラルドの前に、先ほどの男が玄関から御者を連れて出てきた。
「おまえ……何をしている」
「ローレンス・ベケット」
「彼女を放せ」
男はローレンス・ベケット男爵子息だった。ジェラルドはメリッサを後ろに庇って囁く。
「お嬢さまがロンドンに出てきて最初の夜会で踊った男です」
「……」
「そのあとは踊っていないはずです。お嬢さまが覚えていないのも無理はないでしょう」
「覚えていない?」
ジェラルドの言葉にローレンスは目を剥いた。
「手紙を送ったじゃないか。贈り物も」
「剃刀入りの手紙? 鼠の死骸の贈り物? 笑わせる」
「ちがう! 最初に送った求婚の手紙のことだ。返事がなかったから、気が付いていないと思って」
「気付いてほしくて嫌がらせを? ずいぶん変わった趣向の持ち主だ。お嬢さまに振り向いてもらえなくて当然だな」
「花を贈った!」
「お嬢さまは毎日溺れるほど花をもらう」
ローレンスが近付いてくる。ジェラルドはメリッサを庇いながら後ずさった。
「……ナイフを持っているな。こんなことをして、ただで済むと思っているのか?」
「既成事実を作ればいいだけだ。おまえが証人になればいい」
「ふざけているのか?」
「彼女は俺の妻になるんだ。彼女を傷物にすれば、俺のものになる」
ジェラルドが思いきりローレンスの襟首を掴んだ。中背のローレンスが背の高いジェラルドに持ち上げられる。
「女性が……お嬢さまがどんなに怖い思いをしたか、おまえにわかるか? 恐怖が心を壊していくことを知っているか? あの華奢な腕がおまえをどれだけ痛めつけても、おまえはなんともない。でもおまえは、たった一枚のカードでお嬢さまを傷つけることができるんだ」
怒りに震えるジェラルドが岩を噛み砕くように言った。
男はナイフをポケットから取り出そうと試みたようだが、ジェラルドに膝で蹴られて取り落とした。
ジェラルドが両手でさらにタイを掴み上げると、男の首が締まりみるみる顔が赤くなっていく。
ぼうっとその様子を見ていたメリッサは、やっとこの状況がまずいものだと気が付いてジェラルドの背中に叫んだ。
「ジェラルドさんっ、やめて」
ジェラルドの振り上げた拳が男の左頬にめり込む。男はなす術もなく地面に倒れ込んだ。
「おまえのような卑劣な奴に誰かを愛する資格はない」
男に乗り掛かり、さらに拳を振るおうとするジェラルドの腕に、メリッサはやっとしがみつく。
「ジェラルドさんっ、ジェラルド!」
我を忘れて肩で息をするジェラルドが、メリッサの髪を目に映した。滑らかな春の夕暮れのような、金色の髪を。
「…………取り乱しました」
「いいの。もういいから」
メリッサが泊っているゲストルームの明かりがついた。メリッサがいないことに気付いたらしい。屋敷の中が人の気配で騒がしくなる。
ジェラルドの瞳を覗き込んで、メリッサは言った。
「大丈夫。あなたがいてくれれば」
「大丈夫ではありません」
「じゃあ、抱きしめて」
恐怖と興奮とで、何かに縋りつかなければ自分を保てそうになくて、メリッサはそう言った。ジェラルドも、躊躇することなくメリッサを包み込んだ。
屋敷から人が出てくる。使用人たちが公爵家の人々を呼んだのを聞いて、ジェラルドはメリッサを離した。
「……セオドアが待っています」
屋敷からセオドアが走ってくる。心配げに、慌てた様子で。けれどメリッサは、ジェラルドを見つめて、首を振った。
「あなたがいい。あなたと一緒にいたいの」
*
ローレンス・ベケットはジェラルドに伸されたのち、警察に連行された。
男爵家の醜聞は近く社交界に広まることだろう。
彼は今期最初の舞踏会でメリッサと踊ってから、手紙、贈り物の他に、ランドレン家の使用人を買収し、メリッサの私物を持ち出させていた。
それだけでは飽き足らず、ランドレン家の夜会の際にメリッサの自室を荒らし、肌着や宝石などを持ち出していた。
元々、彼はセオドア・スコットがよくクラブで飲む友人グループの一人だった。メリッサがクインベリー家に滞在していることを仲間から聞きつけ、友人の顔をしてクインベリー邸を訪れたのだった。
「以上がことの顛末です」
ジェラルドがクインベリー家の応接室に集まった関係者に説明した。メリッサはオーガスタに手を握られジェラルドの報告を聞いていた。
「これで、自宅に帰れるわね」
「本当によかったわ、犯人が捕まって。でも、寂しくなるわ。すぐに帰らなくてもいいのよ。もう少しここに滞在したら」
公爵夫人がメリッサに訊ねた。メリッサはセオドアを見てから、そっと首を振った。
「ご厚意に感謝します、夫人。私もここで過ごした時間はとても楽しいものでした。でも……準備が整ったら、戻ります」
夫人が残念そうな顔をするのに、メリッサは心を痛めた。けれど、もうメリッサは夫人の期待に応えられそうになかった。
立ち上がったセオドアがメリッサに手を差し伸べ、屋敷の外の裏庭に案内した。夏の薔薇がもう見ごろを過ぎていた。社交期は残すところ半分である。
「きみに謝罪する。軽率に他人を屋敷に招き入れ、きみを危険な目に遭わせてしまった。すまなかった」
セオドアが頭を下げた。メリッサはセオドアのこの正直さがとても好ましかった。
「ミスター・スコットのせいではありません。感謝しています。あなたが私に休める場所を提供してくださったのですから」
「でもきみの心の支えにはなれなかった」
メリッサはそのことにも申し訳なく感じた。この人を好きになれたらよかった。そうしたら、きっとみんなが幸せになれたはずだった。きっと、メリッサも。
「笑ってください。こんなに素晴らしいご縁は社交界のどこにもありませんわ」
「私もそう思う。きっといつか後悔するよ」
負け惜しみを隠さずに言って、セオドアは笑った。そしてメリッサを通り過ぎる。セオドアの後ろに、ジェラルドがいた。
「痛みますか」
ジェラルドはメリッサの首に巻かれた包帯を見ていた。
「平気よ」
「昨夜は取り調べでほとんど眠っていないでしょう。おやすみになったらいかがです」
「平気よ」
ジェラルドがメリッサの前に立つのを待って、メリッサは言った。
「私、あなたを待ってた気がする」
「……もう、待たないでください。私はもう、あなたの前に現れません」
「どうして」
「身分が違います。今ならまだ間に合います。セオドアと結婚すると、伝えればいい。セオドアはきっと喜ぶ」
「身分は私を幸せにしない」
メリッサは一歩ジェラルドに近付いた。ジェラルドはもう引かなかった。
「幸せは私が決めるの。あなたじゃない。身分でもない」
「それはあなたが不自由したことのない令嬢だからです。苦労を知らないからだ」
「そうよ。幸いなことに、私に不幸な結婚を強いる家族もいなければ、生活に困窮することがないようにサポートしてくれる家族がいる」
「なら、家族に報いるべきだ」
「……私は十分幸せなの。家族は私がいなくても幸せよ。きっとわかってくれる」
ジェラルドが怒ったように唇を引き結んだ。けれど、メリッサももう止まれない。
「ドレスも宝石も、社交界も、何もいらない。二人で住める家と、毎日食べるものと、馬と犬がいればいい。もしそれで困るようなら、働くわ」
「あなたに何ができるんです」
「…………」
「ほら」
「じゃあ、兄にお小遣いをもらうわ」
「いやですよ。カッコ悪いじゃないですか。私が、どうにかします。あなたが困らないように」
ジェラルドがメリッサの手を取った。そっと近付いて、メリッサの耳元でジェラルドが囁く。
「ずっとあなたが好きだった。グレンフォードの森で、初めてあなたを見た日から」
「3歳児を?」
「……いや。蜂蜜色の天使を。天使は森を走り回るんだと、あのとき初めて知りました」
夜。晩餐を終え、テラスでセオドアはひとり、スコッチの入ったグラスを傾けていた。近付いてくる足音に振り向く。
「ちゃんと話すのは初めてだね」
「……ご無礼をお許しください」
ジェラルドだった。
「無礼も何も、私たちは兄弟だ」
「そう言ってくださるんですね」
「私の母が、すまなかった」
ジェラルドがテラスに手を着いた。夜風が冷たく兄弟の頬を撫でる。
「あなたは、なぜ? 私は夫人を苦しめる存在です」
「それはきみの罪じゃない。父を非難する勇気がないのは母だよ。女性は男の庇護なしに生きられない。だから母を責める気はない。もちろん悪いのは父だよ」
「自由とは、金があって成立するものです」
「上流階級でいえば、金だけでは足りない。身分もなければ」
「それは、自由ですか?」
「自由だよ。たとえば、女王はこの国で最も自由な存在だ」
「なるほど」
二人の間にわずかに沈黙が落ちた。セオドアが続ける。
「それで。彼女と結婚する?」
「……許されないかも」
「おまえは公爵の子どもだよ」
「庶子です」
「じゃあ、私の弟だ。不思議だね。ずっと離れて暮らしていたのに、女性のタイプは似ているなんて。血は争えないな」
「本当に」
「父さんに掛け合ってみよう。エヴァリーなんかちょうどいいんじゃないか。グレンフォードからそう離れていないはずだし、彼女によく似合う」
セオドアが丸テーブルに載せられたグラスに氷とスコッチを入れ、ジェラルドに手渡した。
「どうして親切にしてくれるんですか」
ジェラルドの質問に、セオドアは庭に視線を落とした。
「……別に。そうしたいだけ」
「伯爵がお許しにならない可能性もあります」
「それは私ではどうしようもないな。自分で解決しなさい」
セオドアは、ジェラルドのグラスに自身のグラスを軽くぶつけた。二人は同時に、グラスに唇をつけた。
*
社交期の終わり、社交界はとある結婚で大いに盛り上がった。
《蜂蜜令嬢の結婚相手はミスター・バーナード。誰?》《クインベリー公爵夫妻の長男は来期シーズンの令嬢たちの恰好の餌》
馬車の中で、エミリーが読み上げた新聞の内容にメリッサは吹き出した。
「セオドアさまには悪いことをしたわね」
「来期は公爵夫人も本腰を入れるでしょうし。きっといいお嬢さまがいらっしゃいますよ」
「そうよね」
馬車の外は田舎の風景が広がっている。はじめて来る土地だったが、グレンフォードとよく似ている。森があって、羊が放し飼いになっていた。
御者が間もなくの到着を告げた。
カーテンを開けて景色を眺めていると、不意に子どもの泣き声が聞こえた。奥に、洗濯物を干している女がいる。その足元に赤ん坊がいるのだ。メリッサは馬車を止めた。
「こんにちは、奥さん」
声をかけたが、赤ん坊の泣き声でかき消された。ハーモニーになっていると思ったら、二人いる。双子のようだった。
「大変ですね。だっこしても?」
突然現れた女性に、女は混乱していた。身なりのいい、明らかにお嬢さま。後ろからはメイドと思しき女性まで。
「ええ、でも。お召し物が汚れます」
「洗濯物の途中なんでしょう? その間、少しだけ」
メリッサは赤ん坊の一人を抱き上げた。エミリーを手招きで呼んで、もう一人を抱っこするように言う。
「お嬢さまは、どちらかへ旅の途中で?」
「そうなんです。もうすぐ着くんですけれど。ここは、冬は厳しい?」
「雪は積もりますが、それほどでも。平地ですから」
「新しい領主さまが来たとか」
「ええ。若くてハンサムな方が。前の領主さまのご落胤とか。でも、熱心に領民のところを見て回って、今のところいい人そうです」
「よかった」
赤ん坊は抱き上げてしばらくしたら泣き止んだ。抱っこしてほしかったようだった。洗濯物を干し終えた女はメリッサとエミリーから双子を引き取った。
「うちは牛を育てているんです。お礼にミルクでも」
そのとき、馬の鳴き声が聞こえた。
「メリッサ」
馬上には黒髪の領主である。女は彼を見上げて――メリッサを見た。
「まさか……奥さま?」
メリッサはにこりと笑った。そのままジェラルドの手を取って、馬に乗る。
「エミリー、先に行ってるわ!」
そして、ジェラルドとメリッサは駆けていった。
残された女とエミリーは顔を見合わせる。
「……失礼なことを。申し訳ございません」
「お嬢さま……いえ、奥さまはそんなふうに思っていないと思いますわ。噂は本当ですしね」
エミリーは双子を撫でて、馬車に戻った。
*
「何をしていたんです」
「双子が泣いていたから、少しだけ抱っこを。私、ナニーならできるかも」
「大丈夫です、何もしなくて」
馬で森を駆けながら、二人は話した。ずいぶん冷え込むようになったけれど、ジェラルドは温かった。メリッサはジェラルドにもたれかかる。
「本当に来たんですね」
「いけなかった?」
「いいえ。待っていました」
馬の速度を緩め、静かな森の中で、二人はお互いを見つめた。
「キスをしても?」
「結婚式でしたわ」
「今、したい」
直接的なお願いにメリッサは鼓動が速くなるのを感じた。でも、触れたいと思ってもらえることがとてもうれしかった。メリッサは頷いて、目を閉じる。
とても、幸せだった。
了




