三章 ランドレン家の夜会
応接室でメリッサは窓の前の長椅子に足を放り出して座っていた。窓の外に馬車が一台停まるのが見えた。馬車から降りてきた男は、数分ののち、また馬車に乗って引き返していった。
本日、2回目の出来事である。
「そばかすができてしまいますよ」
エミリーがそう言いながら部屋に入ってきた。手にしたワゴンには、お茶とお菓子、そして例のゴシップ紙が載っている。
「今のは?」
「サザンディア子爵です。お嬢さまは体調がすぐれないと伝えて、お帰りいただきました」
白いコットンのドレスを身につけたメリッサは、華奢な首、噂に名高い蜂蜜色の金の髪と気怠げなまつ毛が陽の光に透けて、儚げな天使のようだった。
エミリーはメリッサの美しさに絶対の自信を持っている。
「ふふ、だから言いましたでしょ。お嬢さまには素敵な人が現れるって!」
エミリーがゴシップ紙を広げると、そこにはメリッサとセオドア・スコットを模したらしい男女の誇張された似顔絵が描かれていた。
「《クインベリー公爵家の長男、甘く美しい蜂蜜に早くも酔ったようす》ですって!」
「またそんな勝手なことばっかり……」
「で、実際のところ、どうだったんです? 公爵子息は!」
エミリーがメリッサに紅茶のカップを渡しながら問う。メリッサはエミリーがサイドテーブルにカットしたレモンケーキとクッキーを並べるのを待って口を開いた。
「……悪くなかったわ。でも、まだわからない」
「見た目はどうでした? 噂の通りに、ハンサムな方でした?」
「……悪くなかったと思う。見た目なの?」
「誰しも最初は中身なんてわかりません。見た目がタイプだったら、もし中身に欠点があっても許せるかもしれませんし」
エミリーが窓にレースのカーテンを引いた。メリッサは足を下ろしてレモンケーキを手に取る。この時期に食べるレモンケーキは、カントリーハウスで食べるのと同じで安心した。果肉が甘酸っぱくて、美味しい。
「お嬢さまはどんな人が好みなんですか? 髪の色は?」
「好み? そうね……栗毛かなぁ」
「馬の話じゃないんですが」
メリッサは不意に黒髪を思い浮かべた。キャンドルの炎に照らされながら、闇に溶ける静かな色はメリッサの心に馬と同じように静寂をもたらした。
メリッサの髪は明るすぎて、ときどきうるさい。
「それより、性格じゃない? もちろん外見だっていい方がいいけど、やっぱりどうしても許せないことがあるなら選べないわ」
「じゃあお嬢さまはどんなことが許せないんです?」
「ええ……乗馬するなって言ったり、髪を下ろしたまま過ごすなって言ったりすること……?」
メリッサは下ろした髪を弄びながら言った。そのとき、開かれたドアを叩く音がした。
「お嬢さまは自由を重んじたいんですね」
ジェラルドだった。メリッサの外出の予定がない今日、ジェラルドはいつものチャコールのコートを羽織らず、ベストの姿で応接室に入ってきた。
「厩舎に馬を見に行きませんか。仔馬が産まれたそうですよ」
「行きたい!」
メリッサはすぐに立ち上がった。
「バーナードさん。馬もいいですが、レモンケーキはいかがですか」
「ああ、美味しそうですね」
エミリーが口を挟んだが、メリッサはもう止まらなかった。ソファに投げ出していたショールを取り、ジェラルドの腕を引く。
「レモンケーキはまたあとで。エミリー、取っておいてくれる?」
「わかりました」
屋敷を出て、前庭から裏に回る。裏手には所有する馬車を収めた車庫の隣に、立派な厩舎があった。中には藁を集めてまとめている厩番の少年がいた。
ここにいる馬は家族がカントリーハウスからタウンハウスに連れてきた馬と、タウンハウスで飼育されている馬が共同で世話されている。
「タウンハウスの馬が子どもを産んだんです」
少年が小屋内で隔離している奥のスペースに案内してくれた。そこには、赤毛の仔馬が母親と共にいた。
「かわいい。いつ産まれたの?」
「一週間前です」
「触ってもいい?」
少年に許可を取ったメリッサが柵の中に入ると、仔馬は少し後ずさった。
「こんにちは」
母馬の背中を横から何度か撫で、嫌がる様子がないのを確認してから母馬の前に回る。母馬がじっとしているのを見て、仔馬がメリッサにそっと鼻先を近付けた。メリッサは仔馬がメリッサに興味を示すのをじっと待ち、恐怖心がなくなったのを見て、そっと鼻に手のひらを差し出した。
「いい子ね」
ジェラルドは柵の外からその様子を眺めていた。メリッサが振り返る。
「ジェラルドさんも触りますか」
「私は、結構です。怖がらせてはかわいそうなので」
メリッサは頷いて、甘えだした仔馬を両手で包んだ。
ひとしきり仔馬を撫でて、メリッサとジェラルドは厩舎から出た。
光の遮られた薄暗いところから、急に陽の光の下に出た落差でくらくらした。
「日傘をお持ちすればよかったですね」
「大丈夫よ。屋敷はすぐそこだもの」
隣に立ったジェラルドを見上げて、メリッサはその瞳にくぎ付けになった。
――薄いブルーの、灰がかった瞳。明るいところでジェラルドの目をはっきりと見たのは、はじめてだった。
「ミスター・スコットと似てる」
気が付かなかった。瞳以外はどこも似ていない。いや、整った鼻と唇が、似ているかもしれない。
メリッサが間近でジェラルドを見つめるので、ジェラルドは一歩後ろに下がった。
「あ、ごめんなさい」
「兄弟ですから」
ジェラルドは顔を背けて言った。
「えっ?」
「セオドア・スコットは……私の兄です」
*
ランドレン家の夜会が始まった。招待客はできるだけ絞り込んだが、それでもランドレン家の注目のために思ったよりも人が集まっている。
メリッサはオーガスタと共に来客に挨拶をしていた。
「異母兄弟なんです。私はお針子の母に育てられました。公爵家の血筋だと分かってからは、公爵が伯爵に後見を頼んでくださいました」
昨日、ジェラルドが言ったことをメリッサは思い返していた。
「それで、父と昔から知り合いだったの」
「公爵夫人が私の存在を許しませんでした」
「……明日の夜会には公爵夫妻を招待しているわ。もし会いたくないなら、あなたは出なくてもいい」
「いいえ。あなたのおそばを離れません。私の仕事ですから」
ジェラルドはその言葉通り、ホールの隅でメリッサを見ていた。
しばらくして、公爵夫妻は長男を伴って夜会へ姿を現した。オーガスタとメリッサは膝を折って挨拶する。
「クインベリー公爵、公爵夫人。お越しいただき感謝申し上げます」
「グレンフォード伯爵夫人。お招きありがとう。こちらが噂のお嬢さまね」
「メリッサ・ランドレンでございます」
公爵夫人は白金の髪を美しくまとめた、いかにも品の良い夫人だった。
「息子から話は聞きました。お会いできて嬉しいわ」
セオドアが夫人の後ろからメリッサの前に出てくる。
「伯爵夫人、ミス・ランドレン。いい夜ですね」
「ミスター・スコット」
「ダンスは、まだ? 親の目がうるさいから、早く行きたいんだけれど」
「まあ、セオドア」
「母さんがミス・ランドレンのことを根掘り葉掘り聞いてくるからですよ。もういいかな?」
公爵夫人とオーガスタがクスクス笑い合う。メリッサが困ったように二人とセオドアを見比べた。
「ご一緒いただけますか」
セオドアが手を差し伸べ、オーガスタが頷く。メリッサはその革手袋越しの手を取った。
メリッサとセオドアがホールの中央に立つ。それを見た来客たちが息を呑んだ気配がした。本日のファーストダンスは当然、メリッサのものだった。
オーガスタが演奏者たちに合図をすると、ワルツの音楽が鮮やかに始まる。
二人はそれぞれに礼をして、手を取り合った。
「今日は一段とお美しいですね。ミス・ランドレン」
「ありがとうございます」
「そのブルーのドレスは、私の瞳の色?」
薄いブルーのドレスは、メリッサの白い肌と金色の髪を際立たせていた。セオドアの質問にメリッサは俯いた。
「……その……、あの……」
返事に窮するメリッサを気にする様子もなく、セオドアは丁寧にリードする。
少しくらいリズムがずれても気にしない。メリッサはダンスが得意ではないが、セオドアが気にしないので、メリッサも足を踏まないことと、会話だけに集中した。
「……ごめんなさい。そういうわけではなかったの」
「なんだ。私のことを気に入ってくれたのかと思った」
「とても綺麗な瞳だと思ったわ。もしかしたら、頭に残っていたのかも」
「だとしたら光栄なことだ」
セオドアが微笑む。メリッサも微笑み返した。ターンをするたびに、ドレスの裾が浮き上がる。
楽しいかもしれない。ロンドンに来てからいろんな人と何度も踊ったけれど、今が一番楽しい。この前は、もう踊りたくないと思ったのに。
――片手を放して後ろを見たメリッサの目に、ジェラルドが映る。
こうして安心して踊れるのは、ジェラルドがいるからだった。
「――きみは、知っているの」
不意にセオドアが聞いた。メリッサはほんの一瞬、ジェラルドを見つめていたことに気付いた。
「え?」
「彼のこと」
セオドアがジェラルドに視線をやると、ジェラルドもまた、メリッサを……セオドアを、じっと見た。
「伯爵が援助してくれていたことも知ってる。伯爵には感謝しているんだ。きみは彼と仲がいい?」
「……あまり話したことはないの」
「そう。私もだ。母が許してくれなかった。でも、私は自分に兄弟がいると知ってうれしかったんだ。母には内緒だけど」
「話したいと思う?」
「彼が許してくれるなら」
メリッサは不思議に思った。ずっと離れて暮らしているはずなのに、セオドアとジェラルドはどこか似ている。相手の心を注意深く観察して、相手の気持ちを慮るところが。
「きみの家族は、どういう人たち?」
「父も母も仲が良くて、私の自由を尊重してくれようとする。でも常識も重んじるから、今年社交界に出たの。本当なら、田舎でずっと馬と犬と暮らしたいわ。でも兄が、そんな変な妹は嫌だって。私のことを追い出したいみたい」
セオドアは笑みを深くした。
「素敵な夢だ。それなら、私と結婚して、私の領地で馬と犬と一緒に暮らせばいい」
「許してくださる? 変な女だと思わない?」
「思わない。ドレスや宝石が好きで舞踏会が好きな女性の方が、私は変だと思う」
今度はメリッサが笑った。
*
ランドレン家の屋敷の二階は静まり返っていた。一階中央にあるホールでは夜会が盛り上がりのピークを越え、徐々に客が帰宅を始めた頃。
エミリーはメリッサの自室を整えようと部屋のドアを開けた。
誰もいないはずの暗闇の中、キャンドルの小さな灯りが見える。エミリーは、メリッサが戻ってきたのかと思った。
「お嬢さま?」
声を掛けると、その人影が立ち上がった。――メリッサではない。
「きっ……きゃあああああ! だれか、だれか来て!! 人が……!」
ドアの外に向かってエミリーは叫んだ。はずみで手燭を落とし、床にぶつかる乾いた音がした。キャンドルの火は木目の上で消えた。
人影――男と思われる――は、エミリーの声に慌てて窓の外へと逃げていった。
*
夜会はお開きとなった。メリッサはオーガスタとエミリー、エバンズ夫人、そしてクインベリー公爵夫人に囲まれていた。
メリッサの父・ヘンリー、アーサー、ジェラルド、それにセオドアは、使用人を連れてメリッサの部屋から脱出した男の足跡を追っていた。
「そんな事件が起きていたなんて」
クインベリー公爵夫人が深く同情したように呟いた。オーガスタが公爵夫人に頭を下げる。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「そんなこと言わないで。心配よね。まさか家に入り込むなんて」
「夜会の準備で、使用人はほとんどホールに気を取られていましたから。でも、こんな……」
オーガスタも、公爵夫人も言葉を失う。メリッサは黙ったまま二人を見ていた。エミリーがメリッサの手をぎゅっと握る。
「お嬢さま……」
「大丈夫よ、エミリー」
「そうだ。もしよければ、しばらくうちに滞在しない? ここでは安らげないでしょう。うちならきっとゆっくりできるわ」
突然の提案に、メリッサは公爵夫人を見つめた。
「ね、そうしましょう。この事件が落ち着くまで」
オーガスタとエミリーは不謹慎にも表情が明るくなった。




