二章 アスコット競馬会
エミリーには帰りは遅くなるから先に休んでいいと伝えてあった。タウンハウスに帰り着くと、メリッサは寝巻きに着替え、手燭を片手に静かに部屋を出た。
ドアを開け、廊下に出て階段を降りると、階下にジェラルドがいた。
「どうしました」
ジェラルドはコートを脱いでベストの姿だったが、帰ってきたときとほとんど同じ格好だった。
「……水を飲みにきただけ」
「お持ちします」
「あなたは使用人じゃない」
「お疲れでしょう。これくらい構いません」
「待って」
背を向けたジェラルドに、メリッサは呼びかける。
「……一人では待てない。厨房まで一緒に行ってもいい?」
ジェラルドは振り向いて、メリッサの姿を上から下まで見てから言った。
「……アーサーを起こしましょうか」
「ううん、いい。平気」
「それなら、厨房まで一緒に行きましょう。でも、中に入ってはいけません」
メリッサは頷いた。軽率な振る舞いだとわかってはいても、部屋で一人きりになるのはいやだった。かと言って、兄の前では強がってしまいそうだ。
厨房に入っていったジェラルドを覗くような形でメリッサは立ち止まった。
「水でよろしいですか。ホットミルクでも作りましょうか」
「はちみつある?」
「ありますよ」
ジェラルドは慣れた手つきで火を起こし、鍋にミルクを入れた。ジェラルドが厨房の勝手を知っていることにメリッサは驚いた。
ほとんど暗闇の中、明かりはメリッサとジェラルドがそれぞれに持っている手燭と、鍋の火だけ。辺りは静寂。メリッサは廊下でしゃがみ込んだ。
「……ごめんなさい」
二人の間には距離があったけれど、メリッサの声はジェラルドに届いていた。
「なんのことですか」
「さっきのこと。その、動揺して、よくなかったわ」
馬車の中で、メリッサはジェラルドから離れられなかった。コートの裾を握りしめて、子どものように取り乱して。家に着く頃に、ようやくその手を放したのだった。
「……私の失態です。あなたは何も悪くない。私が謝罪すべきです」
「あなたのせいじゃない」
「あなたを怖がらせた」
メリッサは自分でもどうしてそんなに恐怖を覚えたのか、わからなかった。今朝の剃刀の刃だって、一瞬驚いたけれど、そこまでじゃなかったはずだ。
ただ、引き裂かれたくまのぬいぐるみが、メリッサが幼い頃に抱いていたものとよく似ていた気がしたから。くまのぬいぐるみなど、どこにでもあるのに。
「……怖がってなんか」
ない。否定しようとしたメリッサの前に、分厚いカップが差し出された。
「伯爵家のみなさんが使うカップではないですが、ホットミルクにはこれが最適です」
カップを受け取り、メリッサは後ろを振り返る。ジェラルドは厨房の壁越しにメリッサに背を向けていた。
しばらく沈黙が静寂の中に溶けていった。メリッサはただ、甘くてあたたかいホットミルクでちびちびと唇を濡らす。
「……美味しい」
「飲んだらおやすみください。一人では部屋に戻れないと言うなら、メイドを起こします」
メリッサは首を振った。
「大丈夫。一人で平気」
ジェラルドはメリッサがミルクを飲み終えるまで、そこにいてくれた。
翌日。午後はいよいよ、ロイヤルアスコットである。
昼前までしっかり寝たメリッサはエミリーの選んだドレスと帽子で完璧に飾られていた。
「これじゃあ馬に乗れないんだけど」
「乗らないんです! もう、今日は絶対にアーサーさまとバーナードさんから離れないでくださいね」
「気をつけるわ」
快晴の空の下、メリッサはアーサー、ジェラルドと共に馬車に乗った。もう一台には父と母が乗っている。
ウィンザー城を通り過ぎると、広大なアスコット競馬場が見えてきた。アーサーもジェラルドもドレスコードに合わせてモーニングコートとトップハットを身につけている。
「……お兄さま。今日はちゃんと一緒にいて、殿方からのお誘いは全部断ってほしいの」
昨夜の件を聞いて、アーサーも気を使っている様子ではあったが、念の為にお願いをしておく。アーサーは妹の機微よりも体面を気にする節があった。
「社交クラブの知り合いから、おまえを紹介しろって言われてるんだが」
「今日は気分じゃないの。お願い」
「わかったよ」
いつもより青白い頬をした妹に同情の表情を浮かべてアーサーが言う。
「大丈夫だよ、メリッサ。俺がいる」
馬車を降りてしばらく。会場内では家族とジェラルドに囲まれて、何名かの男性からの挨拶を受けた。
けれど約束した通りに、アーサーがそれとなく受け流してくれたためにメリッサは他人と二人きりになるのを避けられている。
そこへ、チャールズが近付いてくるのに気がついた。
「こんにちは。今日は伯爵もご一緒で」
「やあチャールズ」
「昨日ぶりね」
チャールズは全員の顔を見回し、ジェラルドにも会釈をした。アーサーの隣に立つと今日の出走馬の話を始める。
そのとき、入り口でトランペットが高らかに鳴った。
「女王陛下のおなり!」
白い羽のついた帽子を頭につけた女王陛下が入り口から入ってくると、全員が礼を取る。女王は頷いて、用意されたテントへと進んでいった。
その後ろから入ってきたラッセル公爵夫人が、メリッサを見つけてまっすぐに歩いてくる。
明らかな視線を受けて、メリッサは母に視線をやってから夫人に挨拶をした。
「公爵夫人」
「ミス・ランドレン。グレンフォード伯爵夫人。ごきげんよう」
「昨夜は素敵なパーティーでした」
「ミス・ランドレンは大人気だったようね。ずっと踊りっぱなしで疲れたでしょ」
「すこし」
率直なメリッサの返事に夫人は笑い、そして後ろを振り向いた。――女王陛下のテントである。
「陛下がお呼びよ」
メリッサは母と二人で目を合わせた。
陛下の隣に立っていたのは、背が高く、美しい金の髪をもつ青年だった。
灰がかった薄い青の瞳が印象的だったが、それは誰かにとても似ている、とメリッサは思った。
「クインベリー公爵の長男よ。クインベリー公爵は私の従兄弟なの。ご存知?」
女王陛下がメリッサに向かって言った。メリッサは陛下と公爵子息を交互に見ながら、頷いた。……血縁関係の詳細は知らなかった。
「セオドア・スコットです。グレンフォード伯爵令嬢」
「メリッサ・ランドレンです」
「では、ミス・ランドレン」
セオドアが隣の椅子を薦めるので、やむを得ずメリッサは座った。母は女王陛下の隣に座っている。
ちらりとセオドアの様子を窺うと、セオドアもメリッサを見ていた。肌に薄いそばかすの散った、まさに貴公子のような人だった。
「馬は好きですか?」
「あ、はい。特に乗るのが」
「乗馬が趣味? では今度、ハイド・パークで乗馬でも」
セオドアは軽く口にした。あまりに早い展開に、メリッサはセオドアを見つめる。
セオドアはメリッサに近付いて、声をひそめて囁いた。
「こんな場所では、何も話せないでしょう」
セオドアはオーガスタと話し込む女王陛下の方を軽く振り返り、口元で笑った。セオドアは続けた。
「あなたのことを陛下が気に入っている、というのはどうやら本当のようです」
「……光栄です。でも、私にはよくわかりません」
「気に入られた理由が? 嬉しくない?」
「私のことをよく知ってくださった上で、気に入ってくださったのなら嬉しいのです。でも、見た目で気に入ってくださったのなら、複雑です」
「贅沢な悩みだ」
「ミスター・スコットなら共感していただけるかと」
セオドアは今度はちゃんと笑った。優しい笑顔だった。
「そうかもしれない」
それから、競馬の初日をメリッサは終日、セオドアと女王陛下とともに過ごしたのだった。
*
ランドレン家の書斎である。メリッサの父、グレンフォード伯爵ヘンリー・ランドレンが卓につき、アーサーとジェラルドはソファに座っていた。
ジェラルドが一枚の紙片を卓に置く。
「これは」
「ナイフで裂かれたくまの中にありました」
走り書きで《僕以外の男と踊るな》と書かれている。
「これが犯人か」
「おそらく」
「嫉妬か? 我が妹ながら、モテる女ってのは厄介なのを連れてくるもんだな」
ため息混じりに言うアーサーにジェラルドは首を振る。
「お嬢さまのせいではない。それに、そんなに単純なことでもないかもしれない」
「どういうことだ?」
「メイドにお嬢さまの荷物を確認させた。お嬢さまが幼い頃に大事にしていたくまのぬいぐるみが、カントリーハウスから消えている」
「あのぬいぐるみが本当にメリッサのものだったってことか? となると、犯人はうちの使用人?」
「そうとも言いきれない。入手経路はわからないが、持ち出した誰かが犯人に渡した可能性もある」
ヘンリーは卓に肘をついたまま、二人のやりとりを静かに聞いていた。そして、ひとつ口を挟んだ。
「使用人の監視を強化する。ファーナムとエバンズ夫人に事情を説明して、メリッサ付きのメイド以外はメリッサとメリッサの自室に近付かないよう命令しよう」
「いい案です」
「……家の中でも気が抜けないのか」
アーサーがソファからずり落ちる。ジェラルドはそれを横目に続けた。
「本来ならカントリーハウスに帰るのが最もよいでしょうが、この状況ではカントリーハウスも安全とは言いきれません」
「……そうだな。それに、シーズンの途中で帰れば、メリッサの評判に傷が付く」
「そうですね。少なくとも、タウンハウスにいるうちに犯人を捕まえなければなりません」
三人は深く息をついた。
「くまのぬいぐるみのことは、お嬢さまには黙っておきましょう。知ればショックを受けるはずです。夜会や行事への参加は信頼のおける家からのものに限ること、出掛ける際は私とアーサーを伴うこと。奥様には私からお願いしておきます」
そう言って、ジェラルドは部屋を退室した。




