一章 事件は求婚の手紙と共に
「お嬢様、またたくさん来てますよ」
ロンドンは高級住宅街、メイフェアの一角にキングサリの黄色い花房が枝垂れる華やかな屋敷があった。
――初夏。田舎から貴族たちがこぞって首都にやってくる、一年でもっとも街が賑わう季節である。
メリッサ・ランドレンもまた、タウンハウスにやってきて二週間ほどが経っていた。
「今日も大漁ですねぇ」
メイドのエミリー・ハーパーが手紙の束を手に応接室に入ってきた。そのまま、メリッサの手元に十通を超える白の封筒が届けられる。
メリッサは昨年の冬に十八歳の誕生日を迎え、いよいよ社交界で本格的に結婚相手を探しにきたのだ。年頃を迎えた未婚の令嬢たちは、みな女王陛下への拝謁を済ませ、社交期はこれからが本番である。
「これはぁ……フィッツバース伯爵子息、こっちはサザンディア子爵、これはカートレット卿……」
「どなたか、お嬢様のお眼鏡にかなう殿方はいらっしゃいましたか?」
「ん~……」
ソファに腰掛けたまま、メリッサはひと通り目を通して首を傾げた。
「誰も会ったことないと思うんだけどなぁ」
エミリーはがくりと肩を下げた。
「そんなわけないでしょう?! お嬢さま、本当にご結婚される気あります……?」
「うーん……」
「お手紙をくださるってことは、お嬢さまを気に入っているということですよ。ねぇ、バーナードさん」
部屋の隅で空気のように立っていた男にエミリーが声をかける。ジェラルド・バーナードはチャコールのフロックコートを身にまとった背の高い男だった。
「覚えてる、ジェラルドさん?」
「フィッツバース伯爵子息は背の低い小太りの男性、サザンディア子爵は母親に連れてこられた顔色の悪い若い男、カートレット卿はインド貿易でひと山当てた、両手の全部の指に金の指輪をはめた成金です。皆さま、お嬢様とダンスを共にされた方々です」
スラスラと特徴を言われ、メリッサは天井を仰いだ。
「うーん、ぼんやりと……?」
「まったく、これはお嬢様の人生がかかった大事なお手紙ですよ! 今年中にお相手を見つけなかったら、笑い者になるんですから」
「えーなんで? だって素敵な人がいないんだもの。それとも、まだ出会ってないだけ?」
「もちろんいます、いますよ! う――ん……、あ! クインベリー公爵子息セオドア・スコット様とか。歳は少し上ですが、公爵家の後継者ですし、お顔は涼やかでロンドン中の未婚の令嬢の憧れだとか」
「やだ、そんな雲の上の人が私なんて相手にするわけないじゃない」
「何を言ってるんですか! 今期のシーズンではお嬢様が一番の注目株ですよ」
エミリーがどこからか取り出したのは、新聞――ゴシップ紙だ。上流階級の噂話、人々の品定め、目撃情報、女王陛下の栄光も醜聞もすべてが赤裸々に書かれている。
《田舎から突如現れた蜂蜜色の令嬢、女王陛下の心を射止める》
そこには、女王陛下主催の舞踏会で、陛下に挨拶をするメリッサの様子がつぶさに書かれていた。
「ほらこれ。《その蜂蜜の輝きを手にするのは果たしてどのような紳士なのか》ですって」
エミリーが新聞を読み上げている途中、メリッサが一通の手紙に手を止めた。
「あら? この手紙、差出人が書いてないわ」
ペーパーナイフで開けようとしたメリッサの元へ、ジェラルドが大股で近寄って止めた。
「お嬢さま。私が」
ジェラルドが右手だけ黒の革手袋を外し、ペーパーナイフを受け取った。封を切り、銀のプレートの上で逆さにすると――軽い金属音がした。
メリッサとエミリーが覗き込む。
「……剃刀の刃ですね」
ジェラルドのひと言に、エミリーの顔色が一瞬で真っ青になった。
「も、もも、申し訳ございません……! こ、こんな危険な……」
「エミリー、落ち着いて。私は大丈夫、ジェラルドさんのおかげで怪我もしてないし。ジェラルドさん、他には? メッセージとか」
「ありません」
ランドレン家の目下の課題は、このささやかな嫌がらせにあった。女王主催の舞踏会に出席して以来、脅迫状が届いたり、鼠の死骸が届けられたりしている。
これまでは明確に宛名が書かれておらず、ランドレン家の誰を標的にしているかが分からなかったが、事態を重く受け止めた父がメリッサの護衛のためにジェラルドを連れてきた。
そして今日届いた、メリッサへ宛てた凶器入りの手紙。
「これではっきりしたのね。私が標的だって」
まあ分かっていたけど。メリッサは冷めた顔で刃に触れようとするが、革手袋を嵌めなおしたジェラルドが制した。
「怪我をしますよ」
「大丈夫よ」
「いけません」
ジェラルドはその他の手紙をメリッサから受け取って検分し、他に異常がないことを確認した。そのまま剃刀の刃を封筒に戻してジャケットの内ポケットに仕舞う。
「旦那さまに報告します。奥さまとアーサー……さまには念のため警戒は続けていただきますが、お嬢さまはできるだけおひとりにならないようにお願いします」
メリッサは頷くと、残りの手紙をエミリーに渡して立ち上がった。そのままジェラルドを通り過ぎて部屋を出ていく。
「乗馬に行くわ。着替えを手伝ってくれる?」
「お嬢さま! こんな物騒なことがあったあとですのに」
「もう大丈夫よ、午後の予定は誰も知らないもの。ジェラルドさんにも来てもらうし」
「かしこまりました」
「でも……」
「招待状もあるから、お母さまに渡して出席するパーティーだけ決めてもらってくれる?」
エミリーは別のメイドに手紙を渡し、奥さまにこれを、と事付けてから、階段を登って自室に向かうメリッサのあとを追った。
午後の明るい日差しを受け、メリッサは栗毛の愛馬に乗ってハイド・パークのロットン・ロウを歩いていた。隣にはジェラルド、後ろにはランドレン家の厩番の少年がついてきている。
隣を歩くジェラルドと他愛のない、それでいてまだ距離のある会話を続けていると、ジェラルドがふいに訊ねた。
「動揺しないんですね」
「え?」
「普通の令嬢であれば、あんなことがあったら部屋に引きこもってしまうのでは?」
今朝のことを言っている、とすぐに気が付いた。これまでの嫌がらせにメリッサは直接関わってこなかった。メリッサが目にする前に使用人か兄のアーサーが処理しており、メリッサは事件があったと聞くだけだった。
今日、生まれてはじめて、明確な悪意がメリッサに触れようとした。
「いやいやいや、動揺してますよ。だからこうして馬に乗ってるんじゃない」
「馬に乗ることが、あなたにとって平静を保つためにすることなんですか」
「うん。私、ずっと領地の屋敷で育ってきたから。兄が寄宿学校に入ってしまってからは、この子と犬が話し相手だったの」
メリッサは馬のたてがみを撫でた。
はじめてパーティーに出て、たくさんの人の前に出て。好奇の目はどこにいてもあって、居心地悪いのにどこにも隠れられない。全身を針で刺されるような息苦しさ。
そちらに気を取られてばかりいて、話しかけてくる男性に集中などできなかった。
けれど、男性に囲まれて右往左往するメリッサに向けられる、女性たちの視線は敏感に察知してしまう。パーティーは、何をしてもどう動いても、メリッサの思惑とは反対に作用する厄介なところだった。
「……早く帰りたいわ」
「グレンフォードは夏が短い。だからこそ、今の季節は乗馬が気持ちいいでしょうね」
「とても。森が深くて、散歩をするのも楽しいのよ。湖があってね、きつねや鹿がいるの。グレンフォードに来たことが?」
「昔、旦那さまに連れていっていただいたことが」
「そう。記憶にないわ」
「……あなたはまだ幼かった」
「そんなに前から、父と知り合いなの」
ジェラルドはそれには答えず、軽く馬を駆けるように手綱を緩めた。
「少し走りましょう」
メリッサはすぐにそれに続いた。
夜。女王陛下の妹君であるラッセル公爵夫人の主催するパーティーが開かれた。
ホール中央には数百年前に彫られた顔のない天使の彫像が飾られ、その周りを男女が手を繋いで踊っている。
メリッサは兄と母を両脇にラッセル夫人に挨拶をした。
ラッセル夫人はとうに夫を亡くし、未婚女性の結婚の世話役を生き甲斐としている中年の女性である。
「素敵なパーティーです、夫人」
「グレンフォード伯爵夫人、ミスター・ランドレン、ミス・ランドレン。ようこそ」
「お招きありがとうございます」
「今期最も注目の兄妹が来てくださって光栄よ。自慢の子どもたちね」
「二人とも私の宝ですわ」
「そうでしょうとも。後ほど、お二人にも素敵なお相手をご紹介するわ」
そう言って夫人はまた人波の中へ消えていった。アーサーがその後ろ姿を目で追って、メリッサに囁く。
「俺はいらないから、お前だけ紹介してもらえよ」
「私だっていらないわよ」
「俺はまだ結婚しない。おまえは今期決めないとだろう?」
「大きなお世話。お兄さまもそんなこと言ってたらあっという間に相手にされなくなるわよ」
べー、と舌を出すと母のオーガスタが扇子で軽くメリッサの手の甲をはたく。
「これ、はしたない! ここは田舎の家じゃないのよ。少しは年頃の令嬢らしくしなさい」
「いた! ちょっと、宝になんてことするの」
「曇っていたから鍛えただけよ。石は磨かなきゃ」
家族で会話をしていると、すぐ近くで吹き出すような笑い声が聞こえた。
三人でそちらを見ると、よく知った顔が近付いてくる。
「相変わらず、仲がいいですね」
男はその赤毛の下ににこやかな表情を浮かべて挨拶をした。チャールズ・ウェストン。アーサーの学生時代の友人で、ウェストン子爵家の一人息子だった。
「チャールズ」
「アーサー。美しい母君と妹君に囲まれて、羨ましい限りだ」
「見てただろう? 母はともかく、妹はじゃじゃ馬だ」
「ひどい」
チャールズがメリッサに視線を向ける。チャールズが学生時代には幾度となくカントリーハウスに遊びに来ていたため、メリッサとも当然面識があった。
「兄君はああ言うが……僕にはとても美しいご令嬢にしか見えませんよ。ミス・ランドレン」
「メリッサで構わないわ。久しぶりね、チャールズ」
チャールズとメリッサが会話を始めると、三人の紳士がチャールズの後ろで声をかけるタイミングを見計らいはじめた。
「……さすが、今話題の令嬢だ。僕はこれで譲ろう」
「ごめんなさい、チャールズ」
「また今度、ゆっくり話そう」
チャールズが場所を譲ると、三人が同時にメリッサの前に躍り出た。
「ミス・ランドレン」
「こんばんは」
「パーティーはいかがですか?」
メリッサは立ち止まり、それぞれの顔を見る。前に会ったことのある人か、初対面か、判別がつかない。
「……ええと、こんばんは、みなさん」
「ダンスをご一緒させていただけませんか?」
「次は私と」
「その次は私と」
メリッサは挙動不審になっている自分を自覚しながら、恥を忍んで全員の名前を聞いた。
幸い、まだ一度も踊ったことのない男性たちで、順番にダンスの約束をしてから最初の男性の手を取った。
ダンスの輪に加わるメリッサの背中を見送って、チャールズはアーサーと軽口を叩き合う。
「大変だな、あれは」
「まあ、見目だけなら今期最も美しいのは間違いないからな」
「言うじゃないか」
「客観的事実を述べたまでだ」
アーサーがそう言うと同時に、二人組のご令嬢が近づいてくる。アーサーは壁から背中を浮かせてチャールズに合図をした。
「俺たちも独身らしく遊ぼうじゃないか」
*
夜が更けるまで踊り続けたメリッサを待っていたのはジェラルドだけだった。
「お疲れさまでした」
母と兄はとっくに帰宅している。
「ほんとうに。クタクタよ……もう舞踏会なんてこりごり」
「まだまだシーズンは序盤です」
「もう帰りたい……」
ヒールを履いた足が痛む。ドレスがきつくて重い。
疲れた体を引きずって、やっと到着した馬車に乗り込もうとしたそのときだった。エントランスの明かりが暗い馬車の中を照らすと、きらりと何かが光った。鈍い金属の光。
「きゃあ!」
メリッサが馬車から反射的に飛びのいたのを、後ろにいたジェラルドが抱き留めた。
「中に、何かが……!」
「中を確認してくれ」
ジェラルドが御者に言って中を検めさせる。メリッサはジェラルドの胸に顔を埋めてその結果を待った。
「ぬいぐるみです。ナイフが……」
御者が取り出したのは、銀色のナイフでずたずたに引き裂かれた、くまのぬいぐるみだった。




