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九話

「ねえ、今日は少しだけ、海じゃないところへ行ってみない?」


三日目の朝、栞がそう提案した。彼女が岬の先端から離れて歩き出すのを、結城は初めて見た。


二人は、岬の背後に広がる深い森へと足を踏み入れた。

海岸線の眩しい光とは対照的に、森の中はひんやりとしていて、木漏れ日がシダの葉の上に複雑な模様を描いている。


「この先にね、私が大好きな場所があるの」


栞は迷いのない足取りで、獣道のような細い道を進んでいく。結城はその後ろ姿を追いかけながら、不思議な感覚に陥っていた。彼女が歩くたび、足元の枯れ葉がカサリとも鳴らないような気がしたからだ。けれど、森の静寂が、そんな些細な違和感を思考の隅へと追いやってしまう。


やがて、視界が唐突に開けた。


そこには、森の深部にひっそりと隠された、大きな池があった。

水面は鏡のように静まり返り、周囲の木々の緑を濃く映し出している。そして、その池のさらに奥、深い緑に抱かれるようにして、一軒の家が鎮座していた。


「……すごいな。こんなところに家があるなんて」


結城は思わず声を漏らした。

その家は、古びてはいたが、驚くほど端正な佇まいを保っていた。白い壁に、深い青色の屋根。庭先にはかつて手入れされていたであろう花壇の名残があり、時が止まったような静謐さを纏っている。


「綺麗な家でしょう? 私、ここの池のほとりで本を読んだり、風の音を聞いたりするのが、何よりの贅沢だったの」


栞は懐かしそうに目を細め、池の淵に立った。

彼女の黒い髪と、白いセーラー服。そのコントラストが、古い邸宅を背景にすると、まるで一枚の古い絵葉書のようにしっくりと馴染んで見える。


「誰か、住んでるのかな」

「さあ……どうかしらね。でも、この家は今でも、誰かが帰ってくるのをずっと待っているような気がするの」


結城は、その家を見つめているうちに、妙な懐かしさに襲われた。

自分の育った無機質なマンションとは正反対の、温かな生活の記憶が染み付いた場所。放置されてきた自分にとって、それは憧れを通り越して、胸を締め付けられるような光景だった。


「……栞さんの家、だったりして」


結城が冗談めかして言うと、栞は一瞬だけ、言葉に詰まったような顔をした。

そして、優しく、けれどどこか遠い微笑みを浮かべて首を振った。


「私の……。ふふ、そうね。もしそうだったら、あなたを真っ先に招待したかったわ」


彼女は池の水面に指を伸ばした。

指先が水に触れる直前、水面に一匹のアメンボが小さな波紋を作った。

結城には、その波紋が彼女の指から生まれたものなのか、それともただの偶然なのか、判別がつかなかった。


「ねえ、結城くん。もしも、時間を止めることができるなら、あなたはどうする?」


「……わからない。でも、もし止まるなら、この町に来てからの時間なら止まってもいいかな」


結城の正直な言葉に、栞は満足そうに頷いた。


「ここは、忘れられたものが集まる場所。捨てられた記憶も、届かなかった想いも、みんなこの森が優しく預かってくれるの。だから、あなたもここにいる間は、何も心配しなくていいのよ」


古びた邸宅の窓ガラスに、一瞬、午後の光が強く反射した。

その奥に、誰かが立ってこちらを見守っているような錯覚を、結城は覚えた。


けれど、再び目を凝らしたとき、そこにあるのはただの古い窓と、揺れる木々の影だけだった。


「……帰ろうか。また明日も、ここに来れるしね」


栞が歩き出す。

結城はもう一度だけ、その美しい家を振り返った。

森の奥に眠るその屋敷は、優しすぎるこの町が見せる、最も深い夢の欠片のように思えてならなかった。

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