八話
結城はその隣に腰を下ろし、彼女と同じように水平線を眺めた。
「昨日、急にいなくなったから。……また会えて、よかった」
「ふふ、私はどこにも行かないわ。行けないのよ、ここは世界の端っこだから」
栞は岬の淵に座り、膝を抱えた。彼女が動くたびに、夏の陽光がセーラー服の白い生地の上で跳ねる。その姿はあまりに周囲の景色に馴染んでいて、絵画の一部のように完璧だった。
結城は、ポケットから女将さんに貰ったおにぎりを取り出し、一つを彼女の方へ差し出した。
「これ、宿の人が。……食べる?」
栞は差し出されたおにぎりをじっと見つめ、それから柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。でも、今はいいわ。さっき、たっぷりとお日様の光を浴びたから」
「お日様の光ってお前、植物じゃないんだから」
結城が少し笑うと、彼女も「そうね、そうかもしれない」と声を立てて笑った。
彼女と話していると、都会で感じていたあの「自分を隠さなければならない」という重圧が消えていく。彼女の隣にいる時間は、まるで深い海の底で凪を待っているような、不思議な安らぎに満ちていた。
「ねえ、結城くん。この町の人たちは、あなたに何をくれた?」
「……色々。パンとか、煮付けとか、コーヒーとか。あと、タケルってやつには自転車に乗せてもらった」
「そう。みんな、あなたのことが好きなのね」
「好きっていうか……放っておけないだけだろ、あいつら」
照れ隠しにそう言うと、栞は少しだけ結城の方へ顔を寄せた。
「放っておけないっていうのはね、その人がそこにいてほしいって願うことなのよ。……結城くん、あなたはもう、一人で暗い部屋にいる必要はないの。この町が、あなたを捕まえて離さないから」
彼女の言葉は、予言のように結城の胸にすとんと落ちた。
放置されてきた自分にとって、「捕まえて離さない」という言葉は、何よりも強く、甘美な束縛に聞こえた。
「……栞さんは、ずっとここにいるの?」
「ええ。ずっとよ」
彼女は迷いなく答えた。
「季節が巡って、風の匂いが変わっても、私はここで海を見ているわ。だから、もしあなたが道に迷ったら、いつでもここに来て。私は、いつだってあなたの味方だから」
彼女の黒い瞳が、まっすぐに結城を捉える。
その瞳の奥には、夏の空がそのまま閉じ込められたような、底知れない青さが広がっていた。
「明日も、また来てくれる?」
「……ああ。また来るよ」
約束を交わすと、栞は満足そうに目を閉じ、潮風を吸い込んだ。
彼女の髪が風になびき、一瞬、結城の視界を黒く遮る。
ふと視線を落とすと、彼女が座っているはずの場所には、踏まれた形跡のない青々とした草が、風に吹かれて等しくなびいているだけだった。
けれど、結城はそれを不思議には思わなかった。
この穏やかな町で、この美しい少女と過ごす時間に、これ以上の説明など必要ないと感じていたからだ。
結城は、まだ温かいおにぎりをゆっくりと口に運んだ。
波の音が、心地よいリズムで心臓の鼓動に重なっていく。
明日も、彼女はここにいる。
それだけで、結城の新しい毎日は、意味を持ち始めていた。




