十話
翌朝、目が覚めると同時に、結城の心は昨日の森へと飛んでいた。
『みなと宿』の食堂は、今朝も活気に満ちていた。「今日はどこまで行くんだい?」と笑う女将さんに「あの、森の奥の池まで」と答えると、彼女は一瞬だけ、記憶の底をさらうような不思議な目をした。
「……ああ、あそこかい。あそこは静かでいい場所だ。気をつけて行ってきなよ」
その言葉を背に、結城は昨日と同じ道を辿った。
岬を通り過ぎ、深い緑の入り口へ。昨日の探索で覚えたはずの道は、湿った土の匂いと鳥のさえずりに導かれ、迷うことなく池のほとりへと彼を導いた。
「……栞さん?」
声に出してみたが、返ってくるのは風に揺れる梢の音だけだった。
池の奥に佇むあの邸宅は、昨日と変わらず端正な姿でそこにある。けれど、池の淵にも、家の玄関先にも、あの黒髪の少女の姿はなかった。
結城は池のほとりの、昨日彼女が立っていた場所に腰を下ろした。
いつもなら、誰かと約束して会えないと、自分はやっぱり必要ない人間なのだと卑屈な感情が込み上げてくるはずだった。放置されてきた子供にとって、「不在」は裏切りと同義だったからだ。
けれど、この森の中では、不思議とそんな暗い気持ちにはならなかった。
(いないけれど……ここにいた気配がする)
結城は立ち上がり、一人で邸宅の周りを歩いてみた。
生い茂る草を踏む感触、苔むした石垣の冷たさ。
都会のマンションの、コンクリートに囲まれた無機質な空間では決して味わえなかった、確かな「生」の匂いがそこにはあった。
しばらく歩くと、森の隙間から差し込む光が、結城の整った顔立ちを柔らかく照らし出した。
彼はふと、自分の心が驚くほど軽く、澄み渡っていることに気づく。
いつも鏡の前で確認していた、他人を拒絶するための「冷たい仮面」は、もうどこにもなかった。
この森を、そしてこの家を巡っているだけで、自分が誰からも見られずに過ごした空白の時間が、この土地の持つ豊かな静寂で上書きされていくような気がした。
「……不思議だな」
独り言が、森の空気に溶けていく。
栞はいなかった。けれど、彼女が教えてくれたこの場所の美しさは、確かに結城の中に残っている。
それは、誰かに「与えられる」のを待つしかなかった子供時代には決して得られなかった、自分自身で手に入れた「心地よさ」だった。
ふと見ると、邸宅の庭に、一輪だけ季節外れの白い花が咲いていた。
誰にも手入れされていないはずなのに、その花は凛として、空を仰いでいる。
結城はその場にしゃがみ込み、花を見つめた。
寂しいけれど、清々しい。
独りであることの痛みが、この森の優しさに抱かれて、穏やかな安らぎへと変わっていく。
彼は深く息を吸い込んだ。
肺の奥まで、濃い緑の香りが満ちる。
栞がいない寂しささえも、今は自分を形作る大切な一部のように思えた。
「また、明日来ればいいか」
そう呟いて立ち上がったとき、背後の森が、ざわりと大きく揺れた。
まるで「それでいいのよ」と、誰かが優しく囁いたかのように。
結城は晴れやかな足取りで、光の漏れる森の出口へと向かって歩き出した。
その背中には、もう「放置された子」の孤独な影はなかった。




