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十一話

翌日も、岬に彼女の姿はなかった。


昨日、あんなに晴れやかだった結城の心に、わずかな焦燥が混じる。波留町の空はどこまでも青く、人々の声は相変わらず温かい。けれど、彼がこの町で唯一「自分と同じ孤独の匂い」を感じた彼女だけが、ふつりと姿を消していた。


結城は、吸い寄せられるように再び森の奥へと足を進めた。

昨日よりも道が近く感じるのは、自分の心がこの場所を「目的地」として認識し始めたからだろう。


シダの葉をかき分け、池のほとりに出る。

やはり、そこに彼女はいなかった。


静まり返った水面の向こう、青い屋根の邸宅が、昨日よりもずっと深い沈黙の中で彼を待っていた。

結城は、池を回り込み、その家の玄関先まで歩いていった。


「……すみません」


誰かが出てくることを期待したわけではなかった。けれど、声をかけずにはいられないほど、その家には「生活」の残り香があった。

玄関のドアは、ペンキが少し剥げているものの、真鍮のノブは磨かれたように鈍く光っている。


返事はない。

結城は、家の側面にある、池に面したテラスの方へ回ってみた。

そこには、小さな木製の椅子が一つ置かれていた。長年、雨風に晒されてきたはずなのに、なぜかその椅子だけは、さっきまで誰かが座っていたかのように、周囲の空気から浮き立って見えた。


椅子のそばの床に、一冊の本が落ちていた。

結城がそれを拾い上げると、表紙には見慣れない古い活字でタイトルが刻まれていた。ページをめくると、挟まれていたのは押し花――あの岬に咲いていたのと同じ、小さな白い花だった。


その時、家の奥から、微かにピアノの音が聞こえたような気がした。


ポーン、と一音。

調律の狂った、けれど優しく震えるような音。


「……栞さん?」


結城は窓ガラスに手を当て、中を覗き込もうとした。

古い硝子は歪んでいて、中の様子は判然としない。けれど、暗い室内の奥に、真っ白なセーラー服の背中が、ほんの一瞬だけ横切ったような幻視を見る。


結城は思わずドアのノブに手をかけた。

カチャリ、と軽い音がして、鍵はかかっていなかった。


「……お邪魔します」


彼が足を一歩踏み入れた瞬間、懐かしい匂いが鼻を突いた。

それは『みなと宿』で嗅いだ料理の匂いでも、都会のマンションの消毒液の匂いでもない。

古い紙と、石鹸と、そして長い間閉じ込められていた「時間」そのものの匂いだ。


廊下を歩く足音が、板張りの床に心地よく響く。

放置子だった頃、他人の家に入ることには強い拒否感があった。けれど、この家だけは違った。まるで、ずっと昔に自分もここで暮らしていたかのような、根拠のない安らぎが彼を包み込む。


リビングと思われる広い部屋に出ると、そこには一台のアップライトピアノがあった。

鍵盤の上には、塵一つ落ちていない。


結城は、ピアノの側に置かれた写真立てに目を止めた。

セピア色に変色しかけた写真の中。

そこには、今から30年以上も前の、ある夏の日の日付が記されていた。

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