十二話
写真の隅に記された日付――昭和の終わりを告げるようなその数字から、結城は静かに目を逸らした。
今は、それを深く考えてはいけない気がした。それを突き止めてしまったら、この穏やかな時間が砂のように崩れ落ちてしまう。そんな予感があった。
彼は写真立てをそっと元の場所に戻し、リビングを見渡した。
家の中は、外観から想像するよりもずっと「生きていた」。
使い込まれたソファの背もたれ、窓辺に置かれたガラスの文鎮、壁に掛けられた振り子時計。時計の針は止まっているはずなのに、耳を澄ませば、かつてここで刻まれていたはずの、規則正しい生活の音が聞こえてくるようだった。
結城は、ゆっくりとソファに腰を下ろした。
放置子だった頃、彼は「誰かの家」にお邪魔するたび、その家庭固有のルールや空気に怯えていた。けれど、この家には自分を拒絶するトゲがない。
窓から差し込む西日が、古い絨毯の上に長い影を落とす。
その光の中に舞う埃さえも、ここでは星の屑のようにキラキラと輝いて見えた。
(……ここなら、ずっといられる)
都会での自分は、いつも誰かの目を気にしていた。
「整った顔立ち」という仮面を被り、同情も干渉も寄せ付けないように、心を硬い殻で覆っていた。
けれど、この無人の邸宅で一人静かに座っていると、その殻が少しずつ溶け出していくのがわかった。
結城は目を閉じ、深く背もたれに体を預けた。
風が木々を揺らす音。池の水面が跳ねる音。
それらすべてが、自分を「ここにいていいんだよ」と肯定してくれているように感じられた。
しばらくそうしていると、いつの間にか微かな眠気が彼を襲った。
誰にも邪魔されない、完璧な静寂。
自分が「透明な子供」ではなく、ただの「一人の人間」として、この風景の一部になれている。その実感だけで、胸の奥が温かい何かで満たされていく。
目を開けたとき、日はさらに傾き、部屋の中は濃い琥珀色に染まっていた。
結城は立ち上がり、最後にもう一度だけピアノを見つめた。
鍵盤を叩く勇気はまだなかったけれど、彼はその黒い蓋を指先でそっとなぞった。
ひんやりとした感触が、夢と現実の境界線を優しくなぞる。
「……また、明日も来よう」
彼は誰に言うでもなくそう呟き、静かに部屋を後にした。
家を出て、池のほとりを歩き、森の入り口へ向かう。
森を抜けた先に広がる夕暮れの町は、昨日よりもさらに美しく、そしてどこか懐かしい光を放っていた。
結城の足取りは軽く、その瞳には、かつての孤独な少年が持っていたはずのない、穏やかな光が宿っていた。
町の人々の笑い声が、遠くから風に乗って聞こえてくる。
結城は、自分が少しずつ、この町という大きな家族の一員になっていくのを、確信を持って感じていた。




