四話
窓を叩く、どこか浮かれたようなカモメの声で目が覚めた。
結城が目を開けると、古い和室の天井に、海面から反射した波光がキラキラと揺れていた。
都会のマンションで目を覚ます時、いつも感じていたあの「今日をどうやり過ごそうか」という重苦しい沈殿物が、不思議と今朝は軽い。
「おはよう。よく眠れたかい?」
階段を下りると、女将さんが昨夜と同じ、弾けるような笑顔で迎えてくれた。
「顔色が昨日よりずっといい。やっぱり若い子は、寝て食えばなんとかなるもんだね」
朝食は、昨日とは違う香ばしい匂いに包まれていた。
炊き立ての米、炭火で焼かれたアジの干物、瑞々しい漬物。
結城は、自分がこんなにも「空腹」を感じる人間だったのかと驚きながら、夢中で箸を動かした。昨夜まで自分を縛っていた「誰にも頼らない」という意地が、この町の温かい朝食の前に、音を立てて崩れていくのが分かった。
「ごちそうさまでした。……あの、少し町を歩いてきます」
「いってらっしゃい。道に迷ったら誰かに聞きな。みんな暇してるから、喜んで教えてくれるよ」
宿を出ると、朝の町は活気に満ちていた。
漁港の方からは競りの威勢のいい声が響き、細い坂道では、洗濯物を干す主婦たちが「おはよう」「今日はいい風だね」と声を掛け合っている。
結城が歩いていると、すれ違う人々が自然に会釈をしてくる。
都会では、整った顔立ちの彼が歩けば、好奇の視線か、あるいは無関心な拒絶のどちらかだった。けれど、この町の人々は違う。
「おや、宿に泊まった子だね? 散歩かい」
「この先の岬は風が強いから、帽子を飛ばされないようにね」
彼らは、結城を「一人の客」として、あるいは「今日からこの町に加わった一員」として、当たり前のように気にかけてくれる。
放置子として、空気のように扱われてきた結城にとって、その一言一言が、乾いた砂に染み込む水のように身体へ浸透していった。
気づけば、結城は町の一番高い場所にある小さな公園のベンチに座っていた。
眼下には、宝石を散りばめたように輝く海と、それに寄り添うように立ち並ぶ灰色の瓦屋根。
「……帰りたくないな」
ふと、本音がこぼれた。
コンビニの弁当、無機質なリビング、自分の存在を忘れたかのような両親。
あの場所に戻れば、また自分は「透明な子供」に戻ってしまう。
けれど、この町は彼を透明にはさせない。
通りかかる老人が「座ってばかりじゃ腰が固まるぞ」と笑いかけ、配達中の青年が「飲みな」と缶コーヒーを置いていく。
彼らにとって、他人に構うことは呼吸をするのと同じくらい自然なことなのだ。
結城は、温かい缶コーヒーを両手で包み込んだ。
自分の居場所は、ここにあるのかもしれない。根拠のない、けれど確かな予感。
風が、一段と強く吹き抜けた。
潮の香りが、昨日よりもずっと濃く感じられる。
結城は、もっと海の近くへ行ってみようと思い立ち、腰を上げた。
砂浜の方から、また別の、柔らかな風が吹いてきたような気がした。




