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三話

『みなと宿』の暖簾をくぐると、湿った潮の香りと、出汁の効いた醤油の匂いが結城を包み込んだ。


「ごめんください……」


消え入るような声だったが、奥から「はいよ!」と威勢のいい声が返ってきた。現れたのは、ふくよかな体つきをした、エプロン姿の女性だった。彼女は結城を一目見るなり、手に持っていたふきんを置いて、眼鏡の奥の目を丸くした。


「あらまあ……綺麗な顔した坊やだね。こんな時間に一人かい?」


「……泊まれますか。あまり、お金はないんですけど」


結城がリュックのストラップを握りしめて言うと、女将と呼ばれたその女性は、叱るように笑った。


「お金の話は後! ほら、顔が真っ白じゃないの。まずは座って、温かいものを食べなさい。うちは『みなと宿』、行き止まりまで来た客を追い返したら、海の名折れだよ」


案内されたのは、使い込まれた木のテーブルが並ぶ食堂だった。結城が戸惑いながら座ると、すぐに湯気の立つ大きな茶碗と、小皿に乗った焼き魚、それにたっぷりの豚汁が運ばれてきた。


「サービスだよ。食べ残したら承知しないからね」


結城は、箸を持つ手が微かに震えるのを感じた。

家での食事は、いつもプラスチックの容器に入っていた。冷えた揚げ物、硬い米、そして自分一人だけの咀嚼音。

けれど、目の前にあるのは、湯気と共に立ち昇る「誰かが自分のために用意した」という確かな体温だった。


一口、豚汁を啜る。

大根が驚くほど柔らかく、甘い。喉を通る熱が、これまで凍りついていた胸の奥を、乱暴に、けれど優しく溶かしていくようだった。


「……おいしい、です」


「そうかい、そうかい。いっぱい食べな。あんた、都会で随分と肩を張って生きてきたんだろう?」


女将は向かいの席に腰掛け、リンゴを剥きながら何気なく言った。


「整った顔してるとね、周りは勝手に『一人でも大丈夫だ』って思い込むもんさ。でも、子供は子供。誰かに心配されて、誰かに世話を焼かれないと、心に穴が空いちゃうんだよ」


結城は箸を止めた。

「放置子」だった自分を、誰もそんな風に肯定してくれたことはなかった。

学校の先生も、近所の人も、結城が「一人で立派にやっている」と思い込むことで、自分たちの無関心を正当化していたのだ。


「……僕は、ただ、どこか遠くへ行きたかっただけなんです」


「いいじゃないか。遠くへ来るってのは、自分を探しに来るってことだよ。ここはね、何もない町だけど、空っぽの心を埋めるための『時間』だけは腐るほどあるからね」


その夜、結城に与えられたのは、海に面した小さな和室だった。

波の音が、絶え間なく部屋の中に響いている。都会の静寂は「孤独」を突きつけてくる不気味なものだったが、この町の音は、まるで自分を包み込む大きな生き物の鼓動のようだった。


糊のきいた清潔な布団に潜り込むと、微かに太陽の匂いがした。

知らない場所、知らない人々。

それなのに、結城は生まれて初めて、深い深い眠りの中に落ちていった。


翌朝、窓から差し込む眩しいほどの朝日と、カモメの鳴き声で目が覚めるまで、彼は一度も目を覚まさなかった。


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