二話
老婆からもらった蒸しパンは、指先に吸い付くようにしっとりとしていた。
結城は海が見える防波堤に腰を下ろし、それを一口かじった。素朴な甘みが広がり、胃の奥がじんわりと熱くなる。
「……うまい」
独り言が、風にさらわれて消えた。
都会の喧騒の中では、自分の声さえノイズの一部だったが、ここでは波の音だけが世界の主役だった。
ふと視線を感じて顔を上げると、ランニングシャツ姿の中年男性が、犬の散歩を止めてこちらを見ていた。
「兄ちゃん、学生さんか? 学校は?」
「……休んでいます。少し、遠くまで来たくなって」
結城は「学校をサボっている」という罪悪感よりも、自分の居場所を問われることへの警戒心から、少しぶっきらぼうに答えた。顔立ちが整っているせいか、黙っていると余計に人を寄せ付けない冷たさが出る。
しかし、男は嫌な顔ひとつせず、はっはっはと豪快に笑った。
「いいじゃねえか。そういう時もある。俺も若い頃は原付でここまで逃げてきたもんだ」
「……そうなんですか」
「ああ。ここは『溜まり場』みたいな町だからな。行き止まりの海があって、それ以上は進めねえ。だからみんな、一息つくためにここで足を止めるんだよ」
男はそう言うと、足元の柴犬を軽く叩いた。
「今夜、泊まるところは決まってんのか? なけりゃ、あそこの『みなと宿』に行ってみな。格安で、おせっかいな女将がうまい飯を食わせてくれるぞ」
「いえ、すぐ帰りますから」
結城はそう嘘をついた。帰る家はあるが、帰りたい場所ではない。
男は「そうか」とだけ言い残し、夕陽に向かって歩いていった。
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## 街の灯り、心の影
夕闇が町を包み始めると、波留町は昼間とは違う表情を見せ始めた。
家々の窓から漏れるオレンジ色の光。どこかの家から漂ってくる、焼き魚や味噌汁の匂い。
結城はその匂いの中を、宛てもなく歩き続けた。
自分を放置してきた両親の顔は、もう霧がかかったように思い出せない。思い出せるのは、暗いリビングのソファの感触と、電子レンジの「チーン」という無機質な音だけだ。
「あら、君。さっきのパンは食べた?」
路地の角で、先ほどの老婆に再会した。彼女は近所の女性たちと井戸端会議の最中だったらしい。
「あ、はい。美味しかったです」
「よかった。顔色が少し良くなったねえ。あんた、本当はもっと優しい顔をしてるんだろう?」
老婆の言葉に、結城は言葉を詰まらせた。
「優しい顔」なんて、言われたことがなかった。いつも「何を考えているかわからない」「冷たい」と言われ、それが自分を守る鎧だったのに。
「今夜は冷えるよ。うちに余ってる毛布があるから、持っていきな。……それとも、誰かの家で温かいスープでも飲んでいくかい?」
周りの女性たちも、「うちの煮物も持っていきなさい」「若いんだから食べなきゃダメよ」と、口々に声をかけてくる。
彼らは結城の名前も、素性も知らない。
ただ、夕暮れの町に一人で立つ少年の「空っぽな空気」を感じ取り、それを埋めようと手を差し伸べてくる。
結城は、その温かさにひどく戸惑った。
都会では、誰も自分を見なかった。
ここでは、誰もが自分を「一人の人間」として、心配そうに見つめている。
「……少しだけ、この町にいてもいいですか」
消え入るような声で、結城は言った。
「もちろんだよ」と、老婆が笑う。
結城は、教えられた『みなと宿』へと向かった。
知らない天井の下で眠る怖さよりも、この町に漂う「誰かを想う温度」の中に、もう少しだけ浸っていたかった。




