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一話

夕食は、いつも千円札だった。


玄関の靴箱の上に置かれた、丸まった紙幣。それが結城にとっての「母親」であり「父親」だった。

小学校低学年の頃、彼はその千円札を握りしめてコンビニへ行く。揚げ物の匂いが染み付いた店内で、どれを選べばお腹がいっぱいになるか、それだけを考えていた。


「また一人なの? 結城くん」


近所の主婦が、公園のブランコに座る彼を見て声をかけることがあった。結城は、整った顔立ちに貼り付けたような愛想笑いを浮かべて「お母さんは中で仕事してるんです」と嘘をつく。

本当は、鍵の開いた薄暗い家の中で、テレビの砂嵐だけが響いていることを知られたくなかった。


放置されているという事実は、彼を早熟にさせた。

泣いても誰も来ない。腹を空かせても誰も作らない。

彼は「期待しない」という術を身につけ、透明な壁の中に自分を閉じ込めた。


成長するにつれ、その端正な顔立ちは、大人たちから「手のかからない、クールな優等生」という便利なレッテルを貼られる材料になった。

けれど、内側にあるのは、どこまで行っても満たされない、底の抜けた器のような空虚感だった。


高校二年生の、湿度の高い午後。

結城は、いつも通り誰もいない家へ帰るはずの足を変えた。


「……どこでもいい。ここじゃない場所へ」


吸い込まれるように改札を抜け、やってきた電車の行き先さえ確認せずに飛び乗った。

ガタン、ゴトン。

レールの継ぎ目を超える振動が、自分の空っぽな心臓の鼓動と重なる。


都心の喧騒が遠ざかり、ビル群が山に変わり、やがて視界の端に、見たこともないほど深い青色の水平線が飛び込んできた。


---


## 第一章:潮騒の町


バスの終点、錆びついたバス停の看板には『波留はる町』と書かれていた。

バスを降りた瞬間、結城は立ち眩みに似た感覚に襲われた。

風が、あまりにも生温かく、そして優しかったからだ。


「おい、坊主。そんなところで突っ立ってると、トンビに弁当さらわれるぞ」


不意に声をかけられ、結城は肩を跳ねさせた。

振り返ると、手押し車を押した老婆が、梅干しのようにシワの寄った顔で笑っていた。


「あ……すみません」

「謝ることはないさ。綺麗な顔して、迷子かい? それとも、海を見に来たのかい?」


結城は「迷子です」とは言えなかった。

「……少し、遠くまで来すぎてしまって」

「そうかい。なら、ゆっくりしていきな。この町は逃げてきた奴を追い出すほど、忙しくないからね」


老婆はそう言って、手押し車の中からビニール袋に包まれた蒸しパンを一つ、結城の手に押し付けた。

「ほら、まだ温かいよ。食べて落ち着きな」


差し出されたパンは、結城が今までコンビニで買ってきたどんな食べ物よりも、重くて温かかった。

「放置」という冷たい静寂の中で育ってきた彼にとって、この無防備なまでの「関心」は、痛いほどの熱を持って体内に染み込んでいった。

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