十六話
朝の光が差し込んでも、夢の感触は結城の肌にべったりと張り付いたままだった。
女将さんが用意してくれた朝食も、喉を通りそうにない。彼は「散歩に行ってきます」とだけ言い残し、急き立てられるように宿を出た。
目指すのは、昨夜の華やかな幻ではなく、夢の中で見たあの「崩れ落ちそうな家」だ。
森の入り口は、昨夜のパーティーの余韻など微塵も感じさせず、ただ静まり返っていた。池のほとりに辿り着くと、そこにあるのはやはり、青い屋根の古びた邸宅だった。昨夜のシャンデリアも、燕尾服の紳士も、甘いワインの香りも、最初からなかったかのように消え失せている。
結城は迷わず玄関のノブを回した。
昨夜、あれほど輝いていたエントランスは、今はカビと埃の匂いが立ち込める薄暗い空間に戻っていた。
「……あそこだ」
彼は一歩一歩、確信を持って階段を上った。
軋む床板。剥がれた壁紙。夢で見た光景が、現実の質感となって迫ってくる。
廊下の突き当たり、あの小さな部屋のドアを開けると、そこには夢と全く同じ、放置されたままの子供部屋があった。
窓から差し込む一筋の光が、机の上に置かれた一冊のノートを照らしている。
結城は震える手で、そのノート――日記帳を手に取った。
表紙には、消えかかった文字で『栞』と名前が書かれている。
ページをめくる。
最初は、この町での穏やかな日常が綴られていた。海が綺麗だったこと。町の人に飴をもらったこと。けれど、ページが進むにつれて、記述は短く、そして悲痛なものへと変わっていく。
> 『八月十五日
> お父さんもお母さんも、もう一週間も戻ってこない。
> 電話もつながらない。
> 誰も私を忘れてしまったみたい。』
> 『八月二十日
> お腹が空いた。> 窓から見える海はあんなに青いのに。
> 私は、透明な魚になってしまったみたい。』
最後のページ。そこには、震える手で殴り書きされたような一行があった。
> 『寂しいのは、もう嫌だ。
> 誰かに見つけてほしかった。』
結城は、日記を握りしめたまま、その場に崩れ落ちた。
50年前。この場所で、一人の少女が自分と同じ「放置」という絶望の中にいた。誰もいない家、空っぽの冷蔵庫、社会から切り離された無音の恐怖。
彼女は誰かに見つけてもらうことを諦め、あの岬の境界線を越えてしまったのだ。
「……僕だ」
結城の目から、熱いものが溢れた。
「これは、僕だったんだ」
彼女がなぜ自分をこの家に招いたのか。なぜあんなにも華やかなパーティーを見せたのか。
それは、彼女が心の底から求めていた「誰かがいる温かさ」を、同じ傷を持つ結城にだけは、せめて夢の中でだけでも与えたかったからではないか。
不意に、背後から柔らかな風が吹き抜けた。
振り返ると、そこには誰もいない。けれど、開け放たれた窓の向こう、遠くの岬の先端に、夏の陽炎のような白い影が揺れた気がした。
結城は日記を胸に抱き、立ち上がった。
かつての彼女を救うことはできない。けれど、彼女が遺したこの孤独を、自分だけは知っている。
彼は静かに部屋を出た。
邸宅を出ると、眩しいほどの午後の光が彼を包み込んだ。
森を抜けた先には、今も自分を心配し、名前を呼んでくれる町の人々がいる。
結城は、日記をリュックに大切にしまい、しっかりと前を向いて歩き出した。
もう、透明な魚のままではいられない。




