十五話
その夜、結城はこれまでにない深い幸福感に包まれて眠りについた。
頬にはまだ栞の冷たい指先の感触が残り、耳の奥では楽しげなワルツの残響が鳴り響いている。自分を歓迎してくれたみんな。「家族」という言葉が、孤独だった彼の心を温かな真綿で包み込んでいた。
けれど、深い眠りの底で見た夢は、あの煌びやかな一夜の続きではなかった。
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夢の中の結城は、再びあの森の邸宅の前に立っていた。
しかし、そこにシャンデリアの光はなく、提灯の明かりもない。月明かりに照らされた家は、一昨日見たときよりもさらに古び、深い沈黙に沈んでいた。
結城は導かれるように、再び家の中へと足を踏み入れた。
パーティーであんなに光り輝いていた床は、カサカサに乾いた板張りに戻り、一歩歩くたびに「ギィ……」と悲鳴のような音を立てる。
壁紙は無残に剥がれ落ち、そこには華やかな絵画の代わりに、湿気と歳月が描いた染みが広がっていた。
「……誰か、いませんか?」
声を出すが、返ってくるのは窓の隙間から吹き込む風の音だけだ。
結城は、昨日は行かなかった二階への階段を上った。埃が舞い、空気はひんやりと重い。
廊下の突き当たりにある、一番小さな部屋のドアを開ける。
そこは、子供部屋だった。
作り付けの棚には、色褪せた絵本と、片目の取れたぬいぐるみが置かれている。
机の上には、一冊の学習ノートが開いたままになっていた。結城が覗き込むと、そこにはまだ幼さの残る、けれど丁寧な筆致で日記が記されていた。
> 『お父さんもお母さんも、今日も帰ってこない。
> 冷蔵庫の中は空っぽだけど、私は大丈夫。
> 岬で海を見ていると、寂しくないから。』
結城はその文字をなぞった。指先に伝わるのは、紙のざらついた感触と、何十年も前に誰かが抱えていたはずの、剥き出しの孤独だ。
それは、都会のマンションで一人、千円札を見つめていた自分自身の痛みと、あまりにも似通っていた。
ふと、背後に気配を感じて振り返る。
そこには、昨日のドレス姿ではなく、あの夏のセーラー服を着た栞が立っていた。
けれど、彼女の姿は霧のように薄く、壁の染みが透けて見えている。
彼女は悲しげな瞳で結城を見つめ、そっと口を開いた。
「……結城くん。あなたも、知っているでしょう?」
彼女が指差した先。
部屋の隅にある柱には、身長を測ったらしい刻み目がいくつもついていた。
けれど、その刻み目はある一点で唐突に止まっている。
そのすぐ横には、小さな、あまりにも小さな文字で、彼女の名前と――。
「……あ」
結城がその日付と名前を読み上げようとした瞬間、足元の床が音を立てて崩れ落ちた。
奈落へ落ちていく感覚の中で、結城は見た。
廃屋となったリビングの真ん中で、一人きりでピアノの前に座り、音の出ない鍵盤を叩き続ける少女の、震える背中を。
「栞さん!」
叫んだ声は自分の喉に張り付き、結城は暗闇の中で跳ね起きるように目を覚ました。
窓の外では、夜明け前の藍色の光が世界を包み始めていた。
シーツは冷たい汗で湿っている。
夢で見たあの崩れかけの家と、そこに刻まれた「孤独」の記録。
それは、昨夜の華やかなパーティーよりも、ずっと生々しく結城の胸に突き刺さっていた。




