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十三話

一番星が、群青色の空に静かに火を灯した。


結城は『みなと宿』をこっそりと抜け出し、夜の森へと向かった。昼間はあんなに親しみやすかった森の入り口は、夜のとばりに包まれると、異界への入り口のような厳かな気配を放っている。


「……結城くん」


暗がりのなか、白く光るような人影が立っていた。栞だった。

彼女は昨日のセーラー服ではなく、淡いサテン地のドレスを纏っていた。それは少しクラシックなデザインだったが、彼女の透明感のある美しさをこれ以上ないほど引き立てていた。


「さあ、行きましょう。みんな待っているわ」


彼女に導かれ、森の奥へと進む。すると、昨日までは静まり返っていたはずの池のほとりに、信じられない光景が広がっていた。


「……えっ」


結城は思わず足を止めた。

あの古びて、あちこちペンキが剥げていた邸宅が、今はまるで新築されたばかりのように輝いている。窓からは温かな琥珀色の光が溢れ出し、池の水面には色とりどりの提灯が反射して、宝石を撒き散らしたような美しさだ。


一歩、家の中に足を踏み入れると、そこは別世界だった。

昨日見たはずの、埃っぽく時間が止まったリビングはない。床は蜜蝋で磨き上げられたように光り、高い天井からはクリスタルのシャンデリアが吊り下げられ、軽やかなワルツの旋律が部屋を満たしている。


そして何より、そこには「人」が溢れていた。


「ようこそ、いらっしゃい!」

燕尾服を着た紳士が、銀のトレイに乗ったシャンパングラスを運びながら、結城にウィンクをする。

「結城くん、だね? 栞から聞いているよ。さあ、遠慮せずに楽しんで!」


知らない人ばかりだった。

古めかしいワンピースを着た女性、三つ揃えの男性。楽しそうに談笑する軍服姿の青年。


彼らの服装はどれも、いつの時代のものか判然としないほど多様で、それでいて不思議な統一感があった。皆、この世のものとは思えないほど朗らかな表情を浮かべ、結城のことをずっと前からの知人のように温かく迎え入れる。


「ねえ、驚いた?」


栞が、ピアノの傍らで立ち止まった。ドレスの裾を揺らしながら首をかしげる彼女は、月明かりをそのまま形にしたような、人ならざる美しさを放っている。


「……ああ。昨日来たときとは、全然違うから」


結城は、あまりの違和感に眩暈を覚えた。

昨日、確かに自分はここで、止まった時計と色褪せた写真を見たはずだ。けれど、今、目の前で笑っている人々はあまりにも「生」に溢れている。


「ここは、想いが一番強かった瞬間の姿を見せるの。……結城くん、あなたもここに来れば、もう寂しい子供じゃなくていい。ここでは、誰もが愛されている存在なのよ」


栞は結城の手をそっと取った。

その掌は、驚くほど冷たい。けれど、その冷たさが、今の結城には心地よい清涼感として伝わってきた。


「さあ、踊りましょう? 難しいステップはいらないわ」


結城は彼女に引かれ、ホールの中央へと出た。

周囲の人々が、二人を囲んで優しく拍手を送る。

放置され、誰からも見られずに過ごしてきた日々。それらが今、この非現実的な光の中で、祝福という名の輝きに浄化されていくような気がした。


ふと、ホールの大きな姿見に、自分の姿が映った。

整った顔立ちをした、一人の少年。

けれど、その背後で笑っているはずの人々の姿は、鏡の中には一切映っていなかった。


鏡の中にあるのは、煌々と明かりが灯った部屋で、ただ一人、虚空に向かって手を伸ばして踊る、結城自身の姿だけだった。


「……栞さん、これ、は……」


「シーッ」


栞は結城の唇に、冷たい指先を当てた。

「今は、何も考えなくていいの。この夜が終わるまでは、あなたは私たちの『家族』なんだから」


蓄音機の針が刻むリズムに乗り、結城は再び、美しい夢の中へと沈んでいった。

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