第99話 アウステル
アウステルへは、馬車で六日かかった。
国境を越えたのは四日目の午後だった。検問は形式的で、機構の通行証を見せると、若い衛士はそれを両手で受け取って一礼した。書類の扱いを教育されている手つきだった。
「丁寧ですね」
同行したエレナが、珍しく感想を口にした。
「教育に金をかけています」
「そうでしょうね」
街道は舗装されていた。戦後六年目の街道が舗装されている国を、アレンはほとんど見たことがない。舗装は最後に回るものだ。人が食えるようになり、家が建ち、税が戻り、それでも余ったときに、ようやく道に石が敷かれる。その順番を、この国は正しく踏んでいた。
五日目、途中の宿場町で一泊した。配給所の看板が出ていたが、列はなかった。掲示板に貼られた配給基準を、アレンはしばらく読んだ。世帯人数、年齢区分、就労状況。三つの欄で機械的に区分され、例外を申請する窓口の場所まで書いてある。簡潔で、正しかった。
「読みやすいですね」
エレナが言った。
「はい」
「王都の掲示より、ずっと」
アレンは答えなかった。王国の掲示は、まだ手書きだ。人が足りず、紙も足りない。それでも書いている。書いている人間の顔を、彼は何人か知っている。ここには、その顔がない。かわりに、印刷された基準がある。
その夜、宿の食堂で、アレンは主人に一つだけ尋ねた。
「この町に、去年いなくなった方はいますか」
主人は、麦の粥をよそう手を止めた。
「いなくなった、といいますと」
「亡くなった方、という意味です」
「ああ……何人かは。冬は毎年、何人かは」
「どなたですか」
主人は、ほんの少し困った顔をした。
「役所に聞けば分かりますよ。ちゃんと数えてますから、うちの国は」
「数ではなく、お名前を伺いました」
主人はしばらく考えて、それから、笑って首を振った。
「うちの町は、出入りが多いもんで」
アレンは礼を言って、粥を食べた。味は悪くなかった。塩が正しく効いていた。
六日目の夕方、アウステルの城壁が見えた。石造りの街だった。灰色の壁が整然と並び、屋根の高さが揃っている。塔が三つ。鐘は正確な時刻に鳴った。
馬車が市街に入ると、通りには人が出ていた。裕福には見えない。豪華な店もない。だが、痩せた子どもがいなかった。物乞いがいなかった。壁に落書きがなかった。
破綻していない。それどころか、たぶんこの国は――機構の加盟二十か国の中で、最も安定している。
エレナが、小さく言った。
「表情が」
「出ていましたか」
「少しだけ」
アレンは、窓の外から目を離した。自分が何を期待していたのか、はっきり分かってしまった。どこかで、荒れた街を見たかったのだ。制度を削った国が、削ったぶんだけ荒れている姿を。そうであれば話は簡単だった。数字ではなく、目で反論できた。
そんなものは、なかった。
「宿へ」
「はい」
宿は、財務総監府が手配していた。三階建ての、静かな宿だった。部屋には机と椅子と寝台があり、それ以外のものが一つもない。窓からは中庭が見え、中庭には手入れされた木が四本立っていた。四本とも、同じ高さに刈られていた。
卓の上に、一枚の紙が置かれていた。
――明朝十時、財務総監府にてお待ちしております。 ヴェルナー・クライスト
署名だけが、印刷ではなく手書きだった。アレンは、その紙を持ったまま、しばらく窓辺に立っていた。中庭の木が、風で少し揺れた。
彼とは、これで四度目になる。一度目は、機構の会議室だった。二度目は制度をめぐる交渉の席。三度目は王国の執務室で、支援と引き換えに北方三州の関税自主権を五年間よこせと言われた。あのとき彼は、断られたことを一言も責めなかった。
――あなたの選択が、破綻したときのために。
最後にそう言って、彼は帰っていった。あれは脅しだったのか、予言だったのか。半年経って、答えが出た。どちらでもなかった。あれは予告だ。彼は、破綻するのを待っていたのではない。破綻しない仕組みを、自分で作って持ってくるつもりだった。
王国は破綻しなかった。それでも彼は来た。つまり彼が処理しようとしているのは、王国ではない。
機構そのものだ。
夜、エレナが報告に来た。
「市中で聞き取りました。市民は再編案の存在を知りません。ただ、監査の巡回が減ったことは知っています」
「不満は」
「ありません。むしろ、来なくなって楽になったと」
「……そうでしょうね」
「もう一点」
エレナは、そこで少しだけ声を落とした。
「東部行きの街道が、二年前から一般の通行を制限されています。理由は、道路工事だそうです」
「二年前」
「はい」
アレンは、卓の上の議案の写しを開いた。第七十三葉。数字の付いていない一行。
――東部ヴァイセン地区において、簡略方式による二年間の運用実績を有する。
二年前。道路工事。
「エレナさん。工事は、今も続いていますか」
「続いています」
「二年間、同じ道を」
「同じ道を」
アレンは、紙を閉じた。窓の外、アウステルの街は静かだった。鐘が十時を打った。正確な時刻だった。
正確すぎる街だ、と思った。
戦後処理官は知っている。
うまくいっている国を見て、まず疑うべきは自分の目だということを。
そして、それでも消えない違和感は、たいてい正しいということを。
二年間続いている道路工事の話です。
次回、対面します。




