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無能と追放された〈戦後処理官〉、英雄たちの失敗を全部押し付けられていただけでした 〜だが、唯一の”後始末役”を失った国は、英雄ごと自滅していった〜  作者: 風牙シオン


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第98話 正しい提案

 三十日のうち、十五日を読むことに使った。


 議案の本文は百四十枚あった。付属資料を含めると、その三倍になる。アレンは全部を三度読み、二度目からは反論を書き込むための紙を横に置いた。二度目が終わったとき、その紙は白いままだった。三度目が終わっても、白いままだった。


 会議室に集まったのは五人だった。クラウス、エレナ、カタリーナ・ホルツ、エリオット・ハーグ。そして、アレン。卓の中央に、議案の要約が置かれている。


「順番に確認します」


 アレンは紙を一枚立てた。


「第一。三層監査のうち、影響予測監査を停止する。合理監査と倫理監査の二層に戻す」


「三層にするために、何年かけたと思っているんですか」


 カタリーナが即座に言った。倫理監査を設計したのは彼女だ。


「四年です」


「では、なぜ落ち着いて言えるのですか」


「落ち着いてはいません。読んだだけです」


 アレンは二枚目を立てた。


「第二。記録の保存年限を、十年から二年へ短縮する。二年を過ぎた個別記録は、集計値のみを残して廃棄する」


 誰も、口を挟まなかった。


「第三。以上により、監査に要する費用を、通常時の一・二倍まで引き下げる」


「――一・二」


 クラウスが繰り返した。


「今が二・一だ」


「はい」


「半分以下になるってことか」


「試算ではそうです」


「その試算は」


「正確です」


 アレンはそう言ってから、自分の声がいつもより低いことに気づいた。


「私が三度計算し直しました。前提の置き方に有利な操作はありません。むしろ、向こうは自国に不利になる数字を二か所、そのまま載せています。隠していない」


「二か所って、どこだ」


「一つは、簡略化した初年度に、監査の見落としが一・四倍に増えるという実測です。増えると認めています。もう一つは、二層化した国では、抗議の申し立てが平均で三割増えると書いてあります。制度への信頼が下がるという意味です」


 クラウスが、顔をしかめた。


「自分から書くか、普通」


「書かない議案は、必ずそこを突かれます。突かれる前に書けば、その二点は議論の前提になります」


「……先に自分の弱いところを開けて、そこから先を全部有利にするのか」


「はい」


「たちが悪い」


「たちの良し悪しは、案の質とは関係がありません」


 エリオットが、はじめて口を開いた。


「なぜ隠さないのだと思いますか」


「隠す必要がないからでしょう」


「私もそう思います」


 エリオットは資料を閉じ、両手を卓の上で組んだ。


「私は、まだ判断を出しません。検証には最低でも二十日必要です。ただ、現時点で申し上げられることが一つあります」


「どうぞ」


「この議案は、我々を潰しに来ていません。維持しに来ています。潰しに来たものなら、反論はもっと簡単でした」


 カタリーナが、卓を軽く叩いた。


「維持のために、倫理を落とすのですか」


「落とすとは書いていません。三層目です」


「影響予測監査は、誰が損をするかを先に数える仕組みです。あれを止めれば、損をする人は事後にしか見つかりません。事後に見つかった人は、もう損をしています」


「その通りです」


 エリオットは否定しなかった。


「ですが、費用を払えない国は、そもそも二層目も回せません。カイゼンがそうでした」


 沈黙が落ちた。窓の外は、また雪だった。ベルクの冬は、今年に限って長い。


「エレナさん」


 アレンは、視線を動かさずに言った。


「アウストリアは、この案を自国でどこまで走らせていますか」


「東部の一区で、二年前から先行運用しています」


 全員が顔を上げた。


「二年前」


「はい。議案の付属資料の、第七十三葉に一行だけあります。地区名はヴァイセン。運用主体はアウストリア財務総監府」


 アレンは、その葉を開いた。確かに一行だけだった。〈東部ヴァイセン地区において、簡略方式による二年間の運用実績を有する〉。それだけだ。数字が付いていない。


 この百四十枚の中で、数字が付いていない一行は、そこだけだった。


「……クラウスさん」


「気づいてるよ」


 クラウスが、珍しく低い声で言った。


「あの几帳面な野郎が、一か所だけ数字を出さなかった」


「出せなかったのか、出さなかったのか」


「どっちにしても、そこに何かある」


 アレンは、その一行を指でなぞった。紙は、他の葉と同じ紙だった。


 夜、執務室に戻ってから、彼は総会に提出する意見書の冒頭を書いた。書いては消し、書いては消して、最後に残ったのは二行だった。


 ――本案に反対します。


 ――ただし、本案は正しい提案です。


 この二行を並べて置ける人間は、機構の中でも多くない。反対と正しいは、普通は同じ紙に載らない。載せた瞬間に、自分の足場が消えるからだ。それでも、彼はそう書いた。嘘の理由で反対すれば、その反対はいつか嘘の理由ごと崩れる。反対の理由は、一つでいい。一つだけ、本当のものがいい。


 ペンを置くと、窓に自分の顔が薄く映っていた。十五日ぶんの疲れが、そこにあった。


 戦後処理官は知っている。


 正しい提案に反対するとき、人は必ず、自分が古いものにしがみついているだけではないかと疑うということを。


 その疑いを消してはいけない、ということも。

数字が付いていない一行が、一か所だけありました。

次回、南へ向かいます。

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