第97話 議案
ベルクに雪が降った。中立都市の冬は乾いていて、積もるほどの雪はめったに降らない。それが今年は、朝から静かに降り続けている。機構本部の窓枠に、細い白の縁ができていた。
アレン・クロウは、その縁を一度だけ見て、また書類に目を戻した。王国から戻って、二か月が過ぎている。
執務室の卓には、あの国から届いた月次報告が積まれていた。北方三州の復興は遅れているが、止まってはいない。備蓄は算出できるようになった。数字が出るということは、誰かが数えているということだ。それだけで、あの国は去年とは違う場所になっている。
扉が開いた。
「総会の招集通知です」
エレナが一通の封書を置いた。いつもどおり、感想は付いていない。
「定例は来月のはずです」
「臨時招集です。提出議案が一件」
アレンは封を切った。便箋は一枚だった。要旨が三行、提出国名が一行。それだけの紙が、やけに重く感じられた。
――議案名『三層監査制度の持続性に関する再編案』。
――提出国、アウストリア。
手が止まった。窓の外で、雪が降り続けている。
「……いつ届きましたか」
「昨夜です。事務局は今朝、正式受理しました」
「提出者の署名は」
エレナが、わずかに間を置いた。感情を出さない彼女が間を置くとき、それは事実の重さを測っている時間だった。
「ヴェルナー・クライスト。財務総監、本人の署名です」
アレンは、便箋をもう一度読み直した。三行の要旨は、二度読んでも三行のままだった。
「代理ではなく」
「本人です。アウストリアの総監が議案に直接署名するのは、加盟以来はじめてのことだそうです」
「そうでしょうね」
彼は署名をしない男だった。制度を動かすとき、いつも誰かの名前が先に立ち、彼はその後ろにいた。国家は人格を持たない――そう言い続けてきた男が、自分の名前を紙の一番下に置いた。
それは、宣言だった。
「クラウスさんを呼んでください。エリオットさんとカタリーナさんにも、写しを」
「もう回しました」
「……早いですね」
「回すと思いましたので」
エレナが退がると、入れ替わりにクラウス・フェルナーが入ってきた。手には同じ写しがある。彼はそれを卓に放り、椅子の背に体重を預けた。
「読んだか」
「三行だけ」
「三行で足りるだろ。要は、金がかかりすぎるって話だ」
クラウスは指を三本立てた。
「一つ、三層監査は高すぎる。二つ、このままだと加盟国が耐えられない。三つ、だから作り直させてくれ。――どこか間違ってるか?」
「間違っていません」
「そこだよ」
クラウスは天井を仰いだ。
「間違ってねえんだ。俺たちが一番よく知ってる。二・一倍だぞ。アウストリアの実測で、通常時の二・一倍。あれを何年も回せる国が、いくつあると思う」
三層監査制度。合理監査、倫理監査、影響予測監査。四年かけて組み上げ、加盟二十か国が採用した仕組みは、正しく機能し、正しく高かった。王国の財政再建でも、結局は簡略適用でしのいでいる。恒久的な答えは、まだ誰も出していない。
「向こうは、答えを持ってきたということです」
「答えを持ってきた奴を、どうやって止める」
アレンは答えなかった。窓の外で雪が細くなり、また濃くなった。
「クラウスさん。総会までは」
「三十日だ」
「では、三十日で読みます」
「読むだけか」
「読まずに反対する人間を、私は信用しません」
クラウスは短く笑って、立ち上がった。扉のところで一度止まる。
「なあ。あんた、あの男に負けたことはあるか」
「勝ったこともありません」
「そうだったな」
扉が閉まった。
アレンは、封書に添えられていた第二便――議案の本文が入った厚い包みを、まだ開けていなかった。開ける前に、一つだけ分かっていることがある。ヴェルナー・クライストは、勝てない喧嘩をしない男だ。三十日という猶予も、彼が決めた長さだろう。読ませるつもりで送ってきている。読めば分かると、そう思っている。
包みの封を、指で切った。束は、拳ほどの厚みがあった。表紙の一行目に、几帳面な字でこう書かれていた。
――本案は、制度を廃止するものではありません。存続させるためのものです。
アレンは、その一行を長く見ていた。
紙をめくる。二枚目から、いきなり表が始まっていた。挨拶も、前置きもない。加盟二十か国の監査費用が、国別、年度別、項目別に並び、数字の出どころが一つひとつ脚注で示されている。その脚注のいくつかは、機構自身が公表した資料だった。
つまり、こちらが出した数字で、こちらを詰めに来ている。
三枚目に、折れ線が引かれていた。加盟国の監査支出の推移は上がり続けていて、頭打ちになる気配がない。線の右端に、細い字で一行だけ添えてあった。
――この線は、いずれどこかの国の予算に当たります。当たった国から、抜けます。
カイゼン共和国が抜けたのは、三年前のことだった。あのときは政治的な離脱だと説明された。だが、この線の上に置いてみると、まったく別の説明がつく。
アレンは紙を伏せ、伏せてから、また裏返して読んだ。
夕方になって、雪はやんだ。広場に出ると、石畳は濡れているだけで、白いものは何も残っていなかった。降ったという記録だけが、今日の日誌に一行残る。それも十年経てば、誰も読まない。
戦後処理官は知っている。
最も危険な提案は、悪意から生まれるのではないということを。
それは、正しさの顔をして、正面から署名入りで届くということを。
第2部が動き出しました。今回の相手は、これまでで一番「正しい」相手です。
次回、議案の中身を読みます。




