第96話 それでも、引き受ける
広場の投票は、僅差だった。
燃料を三割減らし、食料を優先する――その選択が、わずかな差で選ばれた。
開票の結果が読み上げられたとき、歓声は上がらなかった。誰かが勝ち、誰かが負けたわけではない。ただ、この国が初めて、自分たちの手で何かを選んだというだけのことだった。
結果を受け、配給所の列が組み直された。文句を言う者もいた。だが、決定の過程を隠さなかったせいか、暴動には至らなかった。
トマスが疲れた顔で報告に来た。
「表立った混乱はありません。ただ、燃料が減った家庭からは、当然、不満の声が」
「記録してください」
「はい」
不満も、感謝も、等しく記録する。それが、この国に必要なことだった。
九日目、多国間融資の第一便が届いた。
国庫が完全に底をつく、その三日前だった。
「間に合いましたね」
財務官が安堵の息を吐く。
「間に合った、というより、ぎりぎりでした」
アレンは書類を確認しながら答えた。ぎりぎり、という一語が、この数週間の全てを物語っていた。
執務室に、ベルナールが訪れたのは、その日の夕方だった。
「……礼を言いに来た」
珍しく、彼のほうから切り出した。
「この国は、お前がいなければ、もう存在していなかっただろう」
「礼を言われるようなことでは」
「言わせてくれ」
ベルナールの声は、震えていた。
「あの日、私はお前を追放した。今、お前は、その国を救った。この因果を、どう受け止めればいいのか、私にはまだ分からん」
アレンはしばらく黙っていた。
窓の外、王都の明かりが、以前より確かに増えている。
「受け止める必要は、ないと思います」
やがて、そう答えた。
「あなたが私を追放したことも、私がこの国を処理したことも、両方とも、もう起きてしまった事実です。赦すとか、赦さないとか、そういう話ではありません」
「では、何なのだ」
「引き受けた、というだけです」
アレンは静かにそう言った。
「あなたが下した判決も、その後の崩壊も、私が今ここでしていることも――全部、誰かが引き受けなければならなかった。それだけのことです」
ベルナールはその言葉を、しばらく反芻するように黙っていた。
「……お前は、変わらんな」
やがて、そう呟いて、小さく笑った。初めて見る、老人らしい穏やかな笑みだった。
「一つ、報告がある」
ベルナールは表情を改めた。
「投獄している、あの男――ガルドのことだ。処遇について、お前の意見を聞きたい」
「私が決めることではありません。あなたと、リアーヌ様の判断です」
「それでも、聞きたい」
アレンはしばらく考えてから答えた。
「彼は、最後まで剣を人に向けませんでした。それを踏まえて、処罰ではなく、償いの機会を与える方向で検討してはいかがでしょうか」
「償い、か」
「北方三州の復興作業に、彼の統率力は使えます。監視付きにはなりますが」
ベルナールはしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「……考えておこう」
夜、リアーヌが執務室を訪れた。
「この国は、これで大丈夫なのでしょうか」
「一時的には」
アレンは正直に答えた。
「多国間の枠組みに入ったことで、当面の資金は確保できます。ですが、根本的な財政基盤は、まだ脆いままです。それに」
「それに?」
「アウストリアが、この選択を歓迎するとは思えません」
窓の外、南の方角に目を向ける。
ヴェルナーの最後の言葉が、耳の奥に残っていた。――あなたの選択が、破綻したときのために。
その言葉が、脅しなのか、予言なのか、まだ分からない。
リアーヌが静かに尋ねた。
「怖くありませんか」
「怖いです」
アレンは素直に答えた。
「ですが、怖さを理由に、選ばないことはできません」
リアーヌはその答えに小さく笑った。初めて見せる、力の抜けた表情だった。
「……あなたらしい答えですね」
その夜遅く、ベルクの機構本部から急使が着いた。
封を切ると、事務局の走り書きが一行だけ入っていた。
――アウストリアが、機構総会に議案を一件提出。
それだけだった。中身は書かれていない。
アレンはその一行を二度読んで、灯りを落とした。
だが、確かなことが一つだけあった。
この国の戦後処理は、終わらない。今日で区切りはついても、明日にはまた新しい書類が積まれる。
戦後処理官は知っている。
どんな決着も、次の戦後の始まりに過ぎないということを。
それでも――引き受け続ける者がいる限り、国は、静かに立ち直っていけるということを。
王国の財政は、ひとまず持ちこたえました。ですが、南の大国はまだ何も終わらせていません。
一通の議案が、もうベルクへ届いています。
次に処理すべき戦後は、そこから始まります。




