第100話 国家は人格を持たない
財務総監府の執務室は、驚くほど狭かった。机が一つ、椅子が三つ、書棚が二つ。装飾はなく、絨毯もない。大国の財務を握る男の部屋にしては、宿の一室とほとんど変わらなかった。
ヴェルナー・クライストは、書棚の前に立っていた。
「よく来てくださいました、アレン殿」
振り向いた顔は、半年前と変わっていない。細身で、背が高く、声は低く、抑揚がない。感情を抑えているのではなく、はじめから抑揚を必要としない話し方だった。
「議案を読みました」
「三度、ですか」
「なぜ分かりました」
「あなたなら三度読むと思いました。二度では反論が出ず、四度目は不要でしょう」
ヴェルナーは、椅子を勧めた。
「率直に伺います。どこが誤っていましたか」
「どこも誤っていません」
「では」
「反対します」
ヴェルナーは、はじめて少しだけ間を置いた。
「理由を」
アレンは、卓の上に一枚の紙を置いた。議案の第二条。記録の保存年限を、十年から二年へ。
「これです」
「そこだけですか」
「そこだけです」
ヴェルナーは、紙を見た。見ただけで、手には取らなかった。
「影響予測監査の停止には、反対されないのですか」
「反対したい気持ちはあります。ですが、あなたの試算が正しい以上、私はそれを止める資格がありません。止めるなら、代わりの財源を持ってくるべきです。今の私は持っていません」
「正直な方だ」
「二層に戻せば、事前に見つけられたはずの損が、事後に見つかることになる。それは害です。ですが、費用が払えずに制度ごと崩れれば、事前も事後もなくなる。あなたの言うとおりです」
「では、なぜ第二条だけを」
アレンは、少しだけ姿勢を正した。
「監査は、判断のための仕組みです。判断は、いつか間違えます。間違えたと分かるのは、たいてい何年も後です」
ヴェルナーは、黙って聞いていた。
「五年前に何を決めたのか。誰に配り、誰に配らなかったのか。そのとき、どんな根拠で線を引いたのか。――それが残っていなければ、間違いは間違いのまま次の判断に受け継がれます。制度は、失敗を覚えている限りしか賢くなりません」
「集計値は残します」
「集計値は、何人死んだかを教えます」
アレンは、一度だけ息を置いた。
「誰が死んだかは、教えません」
部屋から、音が消えた。窓の外で、鐘が鳴った。十時半。正確な時刻だった。
「アレン殿」
ヴェルナーは、椅子に深く座り直した。
「あなたは、国家を人だと思っておられる」
「思っていません」
「思っておられます。国家が誰かを覚えていなければならない、と考えるのは、国家に記憶があると考えることです。記憶があるものは、悔いることができる。悔いることができるものは、人です」
「――」
「国家は人格を持たない」
彼は、いつもと同じ調子でそう言った。演説ではなかった。事実を読み上げる声だった。
「国家は悔いません。反省もしません。国家にできるのは、次に同じ支出を繰り返さないことだけです。そのために必要なのは記憶ではなく、集計です。集計は二年で足ります。十年ぶんの個票を抱えている国は、抱えている費用のぶんだけ、来年の配給を減らしています」
「その減った配給で、何人が死にますか」
「試算では、年間で四百人ほどです」
即答だった。
「十年ぶんの記録を保管し続けた場合、その保管費用は、およそその人数ぶんの食糧に相当します」
アレンはその数字を受け止めた。受け止めるのに、少し時間がかかった。
「……その四百人の名前は、記録に残りますか」
「残りません」
「なぜです」
「二年で廃棄しますので」
ヴェルナーの声には、皮肉も、勝ち誇りもなかった。彼は自分の論理の一番弱いところを、隠さずに開いてみせただけだった。それが彼のやり方だった。数字は隠さない。隠す必要がない。
「クライスト殿」
アレンは立ち上がらなかった。ただ、卓の上の紙を、指で自分のほうへ引き寄せた。
「あなたの案は、正しい」
「では」
「ですが、二年で捨てる記録は、記録ではありません」
彼は、はっきりとそう言った。
「それは、集計です。集計は、次の予算を作れます。ですが、次の判断は作れません。判断を作れない仕組みは、いずれ同じ間違いを、同じ規模で繰り返します。安くなった費用で、同じ人数を、もう一度殺します」
ヴェルナーはしばらく何も言わず、それから、はじめて椅子から少し身を乗り出した。
「面白い」
「面白いと言われるとは思いませんでした」
「私に反対する方は、たいてい二つのことを言います。一つは、人の命は数字ではない。もう一つは、制度は理念を失ってはならない。どちらも正しく、どちらも私の試算に一行も触れません」
彼は、卓を軽く指で叩いた。
「あなたは、私の試算に触れずに、私の設計に触れた。そこが違う」
「褒められているのですか」
「事実を申し上げています」
ヴェルナーは立ち上がり、書棚のほうへ歩いた。背を向けたまま、彼は言った。
「総会までは八日です」
「はい」
「その八日を、ここで使うおつもりですか」
「議案を読み終えました。次は、動いているところを見たいと思います」
背中が、動かなかった。ほんの一拍だけだった。書棚の前で、彼の手が止まっていた。
「――ヴァイセンですね」
「はい」
「見に行かれるとよい」
振り向いた顔は、いつもどおりだった。
「既に運用している地区があります。二年です。紙より正確でしょう」
「通行が制限されていると聞きました」
「工事中ですので。通行証を出させます」
「ありがとうございます」
「アレン殿」
扉に手をかけたところで、呼び止められた。
「見て、どうされますか」
アレンは、少し考えてから答えた。
「数えます」
ヴェルナーは、それに何も返さなかった。
宿へ戻る道すがら、アレンは通りの掲示板の前で足を止めた。配給基準が、ここにも同じ書式で貼られている。印刷された、正しい基準。そのどこにも、人の名前はなかった。
戦後処理官は知っている。
正しい仕組みは、しばしば人の名前を必要としないということを。
そして、名前を必要としない仕組みは、名前が消えたことに気づけないということを。
第100話でした。ヴェルナー・クライストの主張は、この作品で一番手強い正論です。
次回から、東部ヴァイセン地区へ入ります。




