第101話 ヴァイセン地区
通行証は、翌朝には届いていた。封筒の中には、通行証のほかに、地区の概要をまとめた一枚が入っていた。世帯数、人口、産業、行政区分。書式は整っており、数字は最新のものだった。
用意がよすぎる、とアレンは思った。昨日の今日で作れるものではない。これは、こちらが行くと決める前から用意されていた紙だ。
アウステルから東へ、馬車で二日。道は途中から未舗装に変わった。工事中と聞いていたが、工事の現場は一度も見なかった。石材も、人夫も、監督の小屋もない。ただ、道が悪いだけだった。
「工事は」
「していませんね」
エレナが短く答えた。
二日目の昼過ぎ、ヴァイセン地区に入った。最初に見えたのは、小麦の刈り跡だった。畑は整然としていて、区画の境に杭が打たれている。杭には番号が焼き印されていた。
村の入口に、掲示板があった。アレンは馬車を降り、その前に立った。配給基準。世帯人数、年齢区分、就労状況。アウステルで見たものと同じ書式で、同じ内容が印刷されている。
汚れていない。破れてもいない。誰も触っていない紙だった。
村は静かだった。人はいる。畑にも、井戸端にも、家の前にもいる。だが、掲示板の前には誰もいない。
「基準を見に来る必要がないんです」
案内に付いた地区の職員が、そう説明した。三十前後の、几帳面な男だった。
「区分は毎年、こちらで機械的に更新します。住民が申請することは、ほとんどありません」
「申請の窓口は」
「あります。ただ、去年の申請は四件でした」
「四件」
「はい。全部、就労状況の訂正です」
アレンは、掲示板をもう一度見た。効率的だった。この村は、確かに効率的に動いている。
役場は、村の中央にあった。簡素な石造りで、机が四つ。職員が三人。棚が一列。
棚を見て、アレンは足を止めた。
「これで全部ですか」
「はい」
「二年ぶんが」
「四年ぶんです」
職員は、少し誇らしげにそう言った。
「簡略方式を始めてから、書類が三分の一になりました。以前は隣の部屋も使っていましたが、今は物置にしています」
棚は一列だった。背表紙には年度と区分が書かれている。〈第三十九年度・配給実績集計〉〈第三十九年度・監査所見〉〈第四十年度・配給実績集計〉。集計、集計、集計。
アレンは、一冊を抜いた。開くと、表があった。世帯区分ごとの配給量、月別の総量、余剰と不足。数字はきれいに揃っている。名前が、一つもなかった。
「個別の受給台帳は」
「二年で廃棄しています。規程どおりです」
「廃棄した年度の分は」
「集計が残っています。そこにあるとおりです」
「物置を、見せていただけますか」
職員は、少し驚いた顔をした。
隣の部屋は、確かに物置になっていた。壊れた椅子、割れた油壺、使わなくなった秤。その奥に、紐で縛った紙束が三つ積まれ、埃をかぶっている。
「これは」
「廃棄予定です。運び出す人手がなくて、そのままに」
アレンは、紐を解かずに束の断面を見た。罫線の入り方が、棚の集計簿とは違う。
「受領簿ですね」
「……古い様式のものです。台帳とは別扱いだったので、規程の対象外になっていまして」
配給を受け取った者が、印を押す簿冊。台帳が廃棄されても、これは残る。誰が受け取ったかは書いてある。誰が受け取らなくなったかも、そこには書いてある。
「捨てないでください」
「はい」
「今日から、この部屋を私が借ります」
「昨年の冬の記録も、見せてください」
「越冬期ですね。少々お待ちを」
差し出された冊子を、アレンは机の上で開いた。十二月から三月まで。配給の総量、世帯区分ごとの配分、燃料の割当。最後の頁に、越冬期の人口異動がまとめられていた。転入、転出、出生、死亡。四つの欄に、それぞれ数字が入っている。
アレンは、その頁を長く見ていた。それから、前の年度の同じ頁を開き、さらに前の年度も開いた。四年ぶんを並べる。簡略方式を始める前の二年と、始めてからの二年。
人口の総数は、ほとんど変わっていない。転入と転出も、大きくは動いていない。
死亡の欄だけが、簡略方式に切り替えた年から、明らかに増えていた。
「――エレナさん」
「はい」
「配給の総量は、減っていますか」
エレナが、隣の頁を目で追った。
「減っていません。むしろ、わずかに増えています」
「では、なぜ死者が増えるのですか」
職員が、口を開いた。
「その年は、寒さが厳しかったと聞いています」
「二年続けてですか」
「……はい」
「その前の二年は、暖かかったのですか」
職員は、答えなかった。答えられなかったのだと、アレンには分かった。彼はこの帳簿を、集計として正しく作った。作っただけだ。並べて比べたことは、一度もない。比べるための紙が、この棚にはない。
アレンは、四冊を机の上に並べたまま、しばらく動かなかった。窓の外で、子どもが二人、駆けていった。声は明るかった。
「もう一つだけ」
アレンは、静かに言った。
「昨年の冬に亡くなった方の、氏名の一覧はありますか」
職員は、机の上の四冊を見て、それから棚を見て、それからこちらを見た。
「……数は、そこにあります」
「はい」
「氏名は」
彼はそこで言葉を切り、切ったまま、続けなかった。
戦後処理官は知っている。
帳簿の数字が合っていることと、帳簿が現実を写していることは、まったく別だということを。
そして――合っている数字ほど、誰も並べて比べないということを。
死亡の欄だけが増えていました。
次回、実務班を呼びます。




