第102話 トマス、東へ
その日のうちに、アレンは二通の書状を出した。
一通目は、機構本部宛。総会の延期を動議する。理由、加盟国の先行運用地区における実地調査の未了。所要、四十日。内訳、往復に十日、現地に三十日。二通目は、アウステルの財務総監府宛で、同じ文面をそのまま写した。
隠す理由がなかった。隠したところで、通行証を出したのは向こうだ。こちらが何を数え始めたかは、明日には伝わる。
「反対されると思いますか」
エレナが尋ねた。
「されません」
「なぜです」
「あの方は、正面から負けることを恐れません。延期を潰せば、潰したことが議事録に残ります。残ったものは、いつか誰かに読まれます」
「……読まれない仕組みを提案している方が、ですか」
アレンは、少しだけ黙った。
「そこが、あの方の一番おかしなところです」
返答は四日目に届いた。総会は四十日の延期。アウストリアは異議を述べず、と一行だけ書かれていた。
実務班が到着したのは、七日目の夕方だった。六人。全員が機構の現場要員で、うち二人は台帳の復元経験がある。荷馬車には、紙と、罫線引きと、木箱が積まれていた。
その先頭から降りてきた男を見て、アレンは少しだけ目を細めた。
「トマスさん」
「遅くなりました」
王国で二年、現地に貼りついていた若者だった。以前より肩幅が広くなり、日に焼けていた。
「王国の引き継ぎは」
「先月終えました。北方三州の台帳は、現地の人間が回せるところまで来ています。私が居続けるほうが、かえって属人的になりますので」
「そう教わりましたか」
「あなたに」
トマスは、荷を降ろす手を止めずに答えた。
「本部に戻ったところで、この書状が来ました。志願です」
「志願」
「はい」
「内容を聞いてからにしてください」
「聞いてから来ました」
アレンは、そこで一度だけ言葉を止めた。
「――では、お願いします」
その夜、村の集会所を借りて、作業の枠組みを決めた。卓の上に、大きな白い紙を広げる。
「やることは一つです」
アレンは、紙の中央に線を引いた。
「この地区で、簡略方式に切り替えてから亡くなった方の、氏名の一覧を作ります」
実務班の一人が、控えめに手を挙げた。
「個別台帳は廃棄済みと伺いましたが」
「はい」
「では、何から作るのですか」
「残っているものからです」
アレンは、線の左側に四つ書いた。埋葬記録――教会と、村の共同墓地。配給の受領印――廃棄されたのは台帳で、受領簿の一部は物置に残っていた。徴税台帳――人が死ねば、翌年の課税対象が変わる。そして、住民の記憶。
「四つを突き合わせます。名前が三つ以上の資料で一致すれば確定、二つなら保留、一つなら未確認とします」
「基準を先に決めるのですね」
トマスが言った。
「後から決めると、都合のいい基準になります」
アレンは、紙の右側に、もう一つ枠を作った。
「それから、この欄を必ず作ってください」
「何の欄ですか」
「――分からなかった人の欄です」
実務班が、顔を上げた。
「分からなかったものを、空欄のまま残します。埋めません。推測で埋めれば、それは記録ではなく作文になります」
誰も、何も言わなかった。
散会のあと、地区の職員が一人だけ残っていた。昼間、棚の前で言葉を切った男だった。
「一つ、伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「この方式は、間違っていたのでしょうか」
アレンは、紙を巻きながら答えた。
「分かりません。まだ数えていませんので」
「……そうですか」
「一つ伺っても」
「はい」
「この簡略方式を設計されたのは、どなたですか」
「ロート様です」
男は、少しだけ姿勢を正して言った。
「財務総監府の、ディーター・ロート様。二年前、この地区に三日おられました。書式も、廃棄の年限も、あの方が引かれたものです」
「クライスト殿ではなく」
「クライスト閣下は、承認された側だと伺っています」
アレンは、紙を巻く手を止めなかった。
「ありがとうございます」
翌朝から、作業が始まった。三日目までは順調だった。
埋葬記録は思ったより整っていた。教会の司祭が、規程とは無関係に、自分の帳面に書き続けていたからだ。彼は「役所が数えるものと、こちらが送る人は別ですので」とだけ言った。徴税台帳も残っていた。金の記録は、人の記録より長く残る。
作業四日目の夜、トマスが集計を持ってきた。顔が硬かった。
「埋葬記録から拾えた数が、百六十四です」
「役所の集計は」
「二年ぶんで、二百三十一です」
アレンは、その二つの数字を、紙の上に並べて書いた。
二百三十一。百六十四。
「六十七人、足りません」
トマスの声が、わずかにかすれた。
「教会に運ばれなかった方がいる、ということでしょうか」
「あり得ます。共同墓地の記録も見ましょう」
「見ました」
「重複を除いて」
「除いた数です」
集会所の窓の外は、もう暗かった。風が出ている。この地方の冬は、たぶん来週から始まる。
「トマスさん」
「はい」
「数が合わないという言い方を、今日から変えてください」
トマスが、こちらを見た。
「合わないのは数ではありません」
アレンは、紙の上の二つの数字の間を、指で示した。
「ここにいるのは、六十七人です」
戦後処理官は知っている。
足りないのは、いつも数ではないということを。
足りないのは、その数だけいたはずの、誰かの名前だということを。
二百三十一と、百六十四。差は六十七でした。
次回、その差の正体を確認します。




