第103話 数だけが残る
物置は、実務班が入った日のうちに作業室になっていた。壊れた椅子と割れた油壺は外へ出し、床に板を渡して長机にした。窓が一つしかないので、昼でも灯りを点けている。紙束の埃は、拭くたびに指が黒くなった。
受領簿は、四十二冊あった。配給を受け取った者が、月ごとに印を押す簿冊で、名前が刷ってあり、その横に印の欄が十二個並んでいる。
アレンは、その一冊を開いたまま、長いこと見ていた。印が、途中で止まっている行がある。三月まで押されて、四月から空白。次の年度の簿冊には、その名前がない。
死んだのか、村を出たのか。簿冊には書いていない。だが、簿冊は「その人がいつまでいたか」を確実に知っている。
「トマスさん。分け方を変えます」
アレンは、白い紙を新しく広げた。
「印が途中で止まった行を、全部抜き出してください。次に、転出の記録と突き合わせます。転出していれば消えます。残ったものが――」
「残ったものが、この村で最後まで受け取っていた人ですね」
「はい」
二日かかった。作業六日目の夜、机の上に一枚の表ができた。印が途中で止まり、転出記録のない者、百九十四人。そのうち、埋葬記録で名前が確認できた者、百六十四人。差は、三十人。
トマスが、もう一枚を重ねた。
「役所の死亡集計は、二年で二百三十一です。こちらの受領簿から出るのは百九十四。まだ三十七、足りません」
「受領簿に、はじめから名前が載っていない人がいます」
「……載っていない?」
アレンは、簿冊の表紙を指した。〈第四十年度・第二区分・受給世帯受領簿〉。
「これは、受給世帯の簿冊です。受給していない世帯は、はじめから載りません」
「受給していない世帯というのは」
「区分から外れた世帯です」
トマスの手が、止まった。
アレンは、昼間に役場から借りてきた別の冊子を開いた。〈区分更新実績〉。簡略方式の中核をなす帳簿だ。
「この方式では、区分は毎年、機械的に更新されます。前年の就労状況をもとに、こちらから申請せずとも自動で区分が付け替えられる」
「効率的です」
「はい。効率的です。ただし――」
アレンは、頁をめくった。
「就労状況は、前年の徴税記録から引いています。前の年に働いていた人は、今年も働けると見なされる」
「怪我をしたら」
「申請してください、と掲示板に書いてあります」
「……去年の申請は」
「四件です」
灯りが、風で一度揺れた。トマスは、しばらく何も言わなかった。
「四件しか、申請されなかった理由は」
「掲示板が、汚れていませんでした」
アレンは、静かに言った。
「誰も触っていない紙でした。触る必要のない人ばかりだった、という説明もできます。触り方が分からなかった、という説明もできます。どちらが正しいかは、紙では分かりません」
彼は、区分更新の帳簿を閉じた。
「規程どおりです。誰も、間違えていません」
「間違えていないのに、死んでいます」
「はい」
その夜、アレンは机に向かったまま、朝まで動かなかった。
数字は、すべて整合していた。役所の集計、二百三十一。受領簿から追える者、百九十四。埋葬記録で名前が確認できた者、百六十四。どこにも矛盾がない。どの数字も、正しい手続きで作られている。だから、誰も気づけなかった。
アウストリアは、隠していない。ヴェルナーは、隠していない。ロートという男も、たぶん隠していない。この地区で起きたことは、二年間ずっと、公式の帳簿の上に書いてあった。書いてあったのに、読める形で残っていなかった。それだけだ。
夜明け前に、エレナが入ってきた。
「本部へ送る速報を、下書きしました」
「読んでください」
「――ヴァイセン地区における二年間の死亡者は二百三十一名。うち氏名の特定に至った者、百六十四名。残余六十七名については」
エレナが、そこで止まった。
「続けてください」
「……残余六十七名については、氏名不詳」
アレンは、その言葉を聞いた。氏名不詳。書式としては正しい語だ。彼自身、何十回も書いてきた。
「エレナさん」
「はい」
「その六十七人には、名前があります」
「はい」
「分からないのは、こちらです」
アレンは立ち上がり、窓の板戸を開けた。外は、まだ暗かった。東の空だけが、わずかに白い。畑の杭に、番号が焼き印されていた。あれは消えない。木が朽ちるまで、番号は残る。
「氏名不詳、と書けば、この件は終わります」
彼は、板戸に手をかけたまま言った。
「終わったものは、二年後に廃棄されます」
エレナは、何も言わなかった。
「――トマスさんを起こしてください。実務班全員も」
「作業の続きですか」
「いいえ。紙を離れます」
アレンは、振り返った。
「聞きに行きます。この村の人に、一人ずつ」
「六十七人ぶんを、ですか」
「六十七人ぶんをです」
エレナは、一拍だけ置いた。
「日数が足りません」
「足りません」
「総会は」
「総会が待たないなら、私は総会に、六十七の空欄を持っていきます」
空は、少しずつ明るくなっていた。
戦後処理官は知っている。
制度は、悪意がなくても人を殺せるということを。
そして、悪意がなかったぶんだけ、誰も気づかないまま、数だけが残るということを。
規程どおりで、誰も間違えていませんでした。それでも六十七人の名前が消えていました。
次回、村を回ります。




