第92話 申し出
国境の見張りから知らせが届いたのは、朝のことだった。
紋章のついた馬車の列が、南から近づいている。数は多くない。だが、その隊列の統率の取れ方だけで、只者ではないと分かった。
使者団の馬車が王城に着いたとき、先頭で降り立ったのは、予想していた人物だった。
「久しいですね、アレン殿」
ヴェルナー・クライストは、以前と変わらぬ端正な物腰で一礼した。
「アウストリアから、直接いらっしゃるとは思いませんでした」
「重要な話ですので。部下に任せるわけにはいきません」
応接室に通されると、ヴェルナーは持参した書類を机に広げた。
「この王国の財政状況は、把握しています。率直に申し上げましょう。私どもは、支援を用意しています」
「条件は」
アレンは前置きを飛ばして訊いた。ヴェルナーは、その簡潔さに小さく笑みを浮かべる。
「相変わらずですね。よろしい――条件は、こちらです」
書類には、融資額と返済計画、そして最後の項目に、こう記されていた。
――北方三州の関税自主権を、五年間アウストリアに委譲すること。
「関税自主権を」
リアーヌの声が、硬くなった。
「一時的な措置です。国家運営の安定を優先するための、合理的な取り決めに過ぎません」
ヴェルナーは変わらぬ口調で続けた。
「あなた方には資金が必要だ。私どもには、市場が必要だ。互いに利益がある取引です」
「北方三州は、旧勇者派の残党が拠点にしていた地域です」
アレンは静かに指摘した。
「その地域の関税自主権を握るということは、実質的な影響圏の確保に近い。違いますか」
「解釈は、ご自由に」
ヴェルナーの表情は、崩れなかった。
「国家は人格を持たない。私が申し上げているのは、あくまで数字上の取引です。感情の話ではありません」
その言葉に、アレンは以前の会談を思い出した。あの時と、何も変わっていない。アウステルの応接室で交わした言葉も、今、この王城で交わしている言葉も、根っこは同じ場所から生えている。
リアーヌが堪えかねたように口を挟んだ。
「あなたにとっては数字でも、私たちにとっては、生活そのものです」
「存じています」
ヴェルナーは初めてリアーヌに視線を向けた。
「だからこそ、条件を提示している。生活を守るための現実的な選択肢を」
その言い方には、嘲りも同情もなかった。ただ、静かな確信だけがあった。
「即答は求めません」
ヴェルナーは書類を置いたまま、立ち上がった。
「三日、お考えください。ただし――他に、資金源をお持ちでしたら別ですが」
部屋を出ていく彼の背中を、アレンはただ見送った。
リアーヌが震える声で言う。
「受けるべきではありません」
「はい」
「ですが、断れば」
「資金は、他で見つけます」
言い切ったものの、その方策は、まだ何も定まっていなかった。
戦後処理官は知っている。
救いの手の形をした申し出ほど、指を絡め取られる前に、正体を見極める必要があるということを。
ヴェルナー、健在です。今回は取引の提示のみに留めます。




