第90話 制度が国を殺すかもしれない
答えの出ない数日が過ぎた。
アレンは、机に向かって同じ試算を何度も組み直した。監査の厳格さを保てば財政が持たない。緩めれば、この国が繰り返してきた失敗をなぞる。どちらの道にも、行き止まりが見えていた。
ベルクへ送った報告書に、エレナから返信が届いた。
簡潔な文面だった。
――三層監査制度の縮小適用案、検討中。ただし、縮小すれば制度の実効性そのものが揺らぐ可能性あり。判断材料が不足。現地の裁量に委ねる。
「裁量に委ねる、か」
アレンは、その一文を何度か読み返した。丸投げではない。これは、機構が自分を信頼している証だ。同時に、答えを他人任せにできないという意味でもある。
「制度をそのまま導入すれば、運用費で国が沈みます。かといって、縮小すれば――」
「監査が甘くなる」
声の主は、ベルナールだった。近頃、彼は毎日のようにアレンの執務室に顔を出すようになっていた。
「甘い監査は、また誰かを見逃す。それが、この国が繰り返してきた失敗だ」
「よくご存知ですね」
「私が、繰り返してきたのだからな」
ベルナールは、皮肉げに笑った。だが、その目に自嘲以上のものが宿っていた。
「一つ、提案がある」
「伺います」
「監査そのものを、簡略化するのではなく――対象を絞れ。全ての支出を三層で見るのではなく、過去に不正の温床になった項目だけを厳格に。残りは、簡易な確認で流す」
アレンは、その提案を頭の中で組み立て直した。
「それは……制度の理念からは外れます。全ての判断を、同じ厳格さで扱うのが本来の設計です」
「理念を守って国が潰れては、意味がないだろう」
ベルナールの声は、静かだが強かった。
「私は、かつてこの国で“形式”を守ることに固執し、多くを見誤った。お前が今、同じ轍を踏むのを、黙って見ているわけにはいかん」
ベルナールは、そこで一度、言葉を切った。
「お前を追放したときも、私は“形式”を守った。手続きは正しかった。だが、結果を見ろ。正しい手続きが、必ずしも正しい結果を生むわけではない」
その言葉には、長年抱え続けた重さがあった。
アレンは、しばらく答えなかった。
制度を曲げることへの抵抗はある。だが、ベルナールの指摘は的を射ていた。全てを守ろうとして、全てを失う。それは、この国で最初に学んだ教訓のはずだった。
「……検討します」
「検討で終わらせるな。あの女――リアーヌ様に、早く伝えろ。彼女も、待っている」
ベルナールが、そう言って部屋を出ていく。
アレンは、机に向き直った。
かつて自分を裁いた男から、これほど実務的な助言を受ける日が来るとは、想像していなかった。
戦後処理官は知っている。
理念を守ることと、理念を活かすことは、時に別の道を通るということを。
ベルナールが、少しずつ協力者になっていきます。




