第89話 底のない財布
ガルドの投降から半月。
治安は落ち着き、輸送路の襲撃も止まった。配給所の列も、以前より穏やかになった。表向きには、王国は静かに立ち直りつつあるように見えた。
だが、アレンの表情は晴れなかった。
その理由は、机の上に積まれた監査報告の束にあった。ガルドの一件で後回しになっていた財政の精査が、ようやく本格的に動き始めていた。
「監査結果が、出ました」
若い財務官が、震える手で書類を差し出す。
「隠し負債が……想定の三倍」
アレンはその数字を、二度読んだ。三倍という言葉が、比喩ではなく事実として書かれている。
「内訳は」
「先代の代からの戦時国債、未払いの傭兵報酬、それから――旧勇者派への“功労金”という名目の支出が、記録にないところで積み上げられています」
「記録にない支出、とは」
「帳簿の外で処理されていた、ということです」
アレンは、目を閉じた。
レルンでもアウストリアでも、財政は苦しかった。だが、少なくとも「記録」はあった。数字を追えば、道筋が見えた。
この国には、その最低限すらない。
「三層監査制度を、適用しますか」
若い戦後処理官が尋ねる。制度自体は、既に他国での実績がある。合理・倫理・影響予測の三層で最悪ケースを潰していく、機構の到達点だ。
「したいところですが」
アレンは、机の隅に置かれたもう一枚の紙を見た。制度の運用コストの試算だ。アウストリアでの拡張試験では、通常の一・八倍から二・一倍のコストがかかった。あれは、まだ国家として機能していた国での話だ。
この国には、コストを負担する体力そのものがない。
「制度が国を救う前に、制度の運用費で国が潰れます」
誰にともなく、そう呟いた。
若い戦後処理官は、それ以上言葉を継がなかった。理想の制度が、現実の前で立ち止まる瞬間を、初めて目の当たりにしたのだろう。
扉の外から、リアーヌの足音が聞こえた。入ってくるなり、彼女は書類の山を見て顔をしかめる。
「悪い話ですか」
「悪い話です」
アレンは正直に答えた。
「これまでの制度を、そのままこの国に持ち込むことはできません。新しく考える必要があります」
「新しく、と言われても……予算がないのでしょう」
「はい」
「なら、どうするんですか」
アレンは、しばらく黙って数字を見つめた。
救う方法を、まだ持っていない。だが、それを口に出す代わりに、こう答えた。
「考えます。今度は、私一人では答えが出ません」
その一言に、リアーヌが目を見開いた。
この男が「一人では出ない」と言うのを、初めて聞いた気がした。
戦後処理官は知っている。
底のない財布は、精巧な計算式では埋まらないということを。
ここから財政編、本格的に苦しくなります。




