第78話 出発前夜
執務室の灯りを一つだけ残し、アレンは机の上を片づけていた。
窓の外は、もう夜が深い。ベルクの街灯りが、遠く滲んで見える。明日の朝には、この景色ともしばらく別れる。
荷物は、少ない。
替えの官服が一着。帳簿と印章。あとは、報告書の写しが数枚。かつてこの国を出たときも、これくらいだったなと、アレンは鞄の口を閉じながら思った。
あのときは、追い出された。今度は、送られる側だ。
立場は違う。荷物の量は、同じだった。
鞄を閉じる手を、しばらく止める。壁に立てかけた地図には、王国の輪郭が描かれている。かつて毎日眺めていた線だ。今は、随分と久しぶりに見る形をしていた。
「本当に、一人で行くのか」
扉口にクラウスが立っていた。腕を組み、いつもの軽口を挟まない顔をしている。
「護衛はつけます。実務は最小人数で」
「訊いてるのは、そこじゃない」
クラウスの声が、珍しく低くなった。
「あんたがあの国に足を踏み入れるのは、追放されて以来だ。個人的な話は、本当に何もないのか」
アレンは、すぐには答えなかった。
鞄の留め具を確かめる指先が、一瞬だけ止まる。
「……ないと言えば、噓になります」
ようやく、そう答えた。
「ですが、感情を理由に判断を曲げるつもりはありません。それだけは、約束します」
「約束、ね」
クラウスは短く笑った。皮肉ではなく、どこか安心したような笑い方だった。
「あんたがそう言うなら、信じるさ。ただな」
クラウスは、腕組みを解いて壁に寄りかかった。
「あんたは昔から、自分の弱さには鈍い。感情を理由に判断を曲げないのは分かってる。だが、感情そのものに気づかないまま突っ走ることは、あんたにも起きる」
「気をつけます」
「気をつける、じゃなくてな」
「前にも似たようなことを言った奴がいたな。“救って、失敗しました”とか」
その一言に、アレンの指がまた止まった。
クラウスは意図して言ったわけではない。単に、昔の会話を覚えていただけだ。だが、その言葉は思っていたより深く沈んでいた記憶の底を、静かに揺らした。
何を救おうとして、何を失敗したのか。
その記憶に、アレンはまだ名前をつけていない。
「……行ってきます」
それだけ言って、鞄を持ち上げた。
執務室を出ると、廊下の窓際にセリアが立っていた。今夜は眠れなかったのだろう、目の下にわずかな影がある。
「見送りに来ました。……私が行くと言っても、止められると分かっていたので」
「今回は、機構をお願いします」
「はい。分かっています」
セリアは、それ以上何も言わなかった。ただ、両手を合わせるように胸の前で組み、小さく頭を下げた。祈りの形に、少しだけ似ていた。
廊下の先で、エレナが待っていた。手元の書類を差し出しながら、いつもの平坦な声で言う。
「現地の最新情報です。到着後すぐ目を通してください」
「ありがとうございます」
書類を受け取る際、エレナの視線がわずかに揺れた気がした。だが、それも一瞬だった。彼女は何も言わず、ただ小さく頭を下げた。
「エレナさんも、王国は」
「……いえ」
短い間があった。
「私のことは、今は結構です。お気をつけて」
それ以上は、踏み込まなかった。アレンも、それ以上は訊かなかった。
馬車の外は、もう暗い。
王都まで、数日の道のりになる。
馬車に乗り込む直前、アレンは一度だけ振り返った。
機構本部の灯りが、暗闇の中に小さく浮かんでいる。この半年、少しずつ形になってきた場所だ。名前のない役職が、名前のない仕組みへと育っていく。その静かな手応えを、置いていく。
戦後処理官は知っている。
覚悟は、荷物のように軽くまとめられるものではないということを。
それでも、抱えたまま歩くしかないということを。
次話から王国編、本格的に始まります。




