第5話 噂は国境を越える
変化は、ゆっくりではあったが、確実だった。
グランツ王国の城下町では、朝になると人の流れが生まれるようになった。炭鉱へ向かう者、倉庫で資材を運ぶ者、修理現場へ急ぐ職人たち。戦後しばらく漂っていた「停滞」の空気が、少しずつ押し出されていく。
アレンはその様子を、城の高窓から眺めていた。
「人は、希望があると歩き出します」
隣に立つリーゼが、静かに応じる。
「希望を与えたのは、あなたでしょう」
「与えたのではありません。……余計な詰まりを取っただけです」
リーゼは小さく息を吐いた。
「それを“できる人間”が、どれほど少ないか」
執務室の机には、新しい報告書が積まれている。内容はどれも似通っていた。治安改善、交易再開、税収の回復。まだ微々たる数字だが、下降線は止まった。
だが、変化は国内だけに留まらなかった。
「隣国アルディアから、使者が到着しています」
そう告げたのは、情報担当のエレナだった。いつの間にか、彼女はグランツに来ていた。王国を出た理由を、彼女はまだ詳しく語っていない。ただ一つ、「ここなら、仕事ができると思った」とだけ言った。
「内容は?」
「“最近、グランツが妙に落ち着いている理由を知りたい”だそうです」
アレンは眉を動かさずに言った。
「予定より早いですね」
「止めますか?」
「いいえ。会いましょう」
応接室に通された使者は、老獪そうな男だった。言葉を選び、笑みを浮かべ、探るような目をしている。
「グランツ王国の復興、目覚ましいと聞き及びまして」
「噂は誇張されがちです」
「それでも、戦後三ヶ月でこれほどの安定は珍しい」
使者は、ちらりとアレンを見る。
「新しい宰相殿ですかな?」
「いいえ」
「顧問?」
「それも違います」
アレンは淡々と答えた。
「私は“戦後処理官”です」
「……聞き慣れぬ肩書きですな」
それはそうだろう。どこの国も、戦争は英雄に任せ、後始末は成り行きに任せてきた。
使者は一拍置いてから、本題を切り出した。
「我が国としては、グランツとの交易再開を前向きに検討したい。ただし――」
「条件がある」
「ええ」
アレンは首を縦にも横にも振らず、言った。
「まずは、難民の受け入れ枠を拡大してください」
「……は?」
「戦後の不安定要因です。交易の前に、整理すべきです」
使者の表情が固まる。
「通常、交渉とは逆では?」
「通常では、国は立て直せません」
沈黙が落ちる。
リーゼは口を挟まない。ただ、アレンの横に立ち、黙っている。それが、この国の意思表示だった。
やがて使者は、苦笑した。
「……強気ですな」
「現実的です」
交渉は長引いたが、結論は出た。条件付きでの交易再開。難民受け入れの調整。互いに譲歩はあったが、破綻はしなかった。
使者が去ったあと、リーゼが言う。
「反感を買いましたよ」
「ええ」
「怖くは?」
「慣れています」
アレンの答えに、リーゼは一瞬だけ視線を伏せた。
一方その頃、王国では。
宰相ベルナールのもとに、別の報告が届いていた。
「隣国アルディアが、グランツとの交易を再開したとのことです」
「……何?」
ベルナールは椅子から立ち上がった。
「なぜ、我が国を通さずに!?」
「グランツが、南回りの交易路を整備したと……」
拳が机に叩きつけられる。
「……あの男だ」
英雄たちはまだ、祝宴と凱旋の中にいる。戦後の細かな火種など、誰も気に留めていない。
だが、火種は確実に広がっていた。
その夜、アレンは執務室で、エレナから一枚の紙を受け取った。
「王国の内部情報です。……かなり、混乱しています」
「でしょうね」
アレンは紙に目を通し、静かに言った。
「噂は、もう戻れません」
「後悔は?」
「ありません」
窓の外、グランツの街に灯りが増えている。
戦後処理官が動くたび、世界は少しずつ形を変える。
そして王国は、ようやく気づき始めていた。
追放した男は、失敗作ではなかった。
――むしろ、手放してはいけない“切り札”だったのだと。
(第5話 了)




