第35話 遅延する崩壊
数字は、静かに狂い始めていた。
表面上は、平穏。
配給は続き、広場では子供たちが遊び、
ミラは毎日人々の声を聞いている。
だが、市場の棚は少しずつ空いていた。
「……流通量、前週比マイナス二十七%」
エレナが報告する。
「徴税、実質停止」
「予測通りです」
アレンは淡々と答えた。
「商人が動かない」
「配給がある限り、価格競争が起きません」
貨幣は回らず、物は止まり、
だが人はまだ不満を口にしない。
――まだ、腹は満たされているからだ。
評議会特使イサークは、報告書を読みながら言う。
「短期的な混乱は抑えられています」
「はい」
「良い傾向です」
クラウスが、苛立ちを隠さず口を挟む。
「市場が死にかけている」
「死んではいません」
イサークは、視線を上げない。
「静かにしているだけです」
その言葉に、部屋の空気が冷えた。
夕方。
小規模な衝突が起きた。
配給品の横流し。
商人と受給者の口論。
「どうせ無料で手に入るんだろ!」
「こっちは仕入れがある!」
兵が仲裁に入るが、
罵声は止まらない。
ミラは現場に駆けつけた。
「やめてください!」
声は通る。
人は一瞬、静まる。
「私たちは、助け合うためにここにいる」
拍手が起きる。
だが、その裏で。
「……根本は変わっていません」
アレンは、遠くからその様子を見ていた。
「対処療法です」
「ええ」
エレナは、記録を更新する。
――横流し増加。
――非公式取引増加。
夜。
会議が開かれた。
「市場活性化策を急ぐべきです」
アレンが再提案する。
「配給縮小の前倒し。
小規模商人への補助金。
労働参加の義務化」
「早すぎます」
ミラは、首を振る。
「不安が広がります」
「広がる前に手を打つべきです」
「今は、まだ耐えられています」
イサークが、静かに言う。
「代表の意見に同意します」
決定は、保留。
再び、時間が延ばされる。
会議後、クラウスが低く言った。
「……君は焦っているな」
「ええ」
「珍しい」
「焦らなければ、手遅れになります」
クラウスは、アレンの横顔を見つめる。
「だが、今動けば“悪者”だ」
「分かっています」
それでも、アレンは迷わない。
「悪者で済むなら、安いものです」
翌朝。
配給倉庫で、事故が起きた。
整理不足による倒壊。
負傷者七名。
死者はいない。
だが、噂は広がる。
「管理が甘い」
「戦後処理官は何をしている」
責任の矛先が、ゆっくりと動く。
アレンは、その声を聞きながら言った。
「……始まりました」
「何が」
「遅延の副作用です」
崩壊は、一気には来ない。
――遅らされ、
――薄まり、
――誰の責任か分からなくなりながら、広がる。
戦後処理官は知っている。
本当に厄介なのは、
“間違いが明確な状況”ではない。
――間違いが、全員で薄められる状況だ。
そして今、
その構造が、完成しつつあった。
(第35話 了)




