第115話 これも、処理すべき戦後です
採決は、十時に始まり、十時二十分に終わった。修正案、賛成十一、反対二。可決だった。
付帯提案――出資比率に応じた議決の加重については、継続審議とされた。廃案ではない。次の総会に、また出てくる。
ディーター・ロートは、採決のあいだ一度も発言しなかった。可決が告げられると、書類を揃えて立ち上がり、議長に一礼して出ていった。施行は、半年後と決まった。
その日の午後、アレンはベルクを発った。アウステルまで六日。同行はエレナ一人にした。トマスには、施行までの実務の枠組みを組ませる仕事を残した。
「見送りは、いいのですか」
出発の朝、トマスがそう聞いた。
「誰にです」
「……いえ」
若者は、言い直した。
「行ってらっしゃいませ」
六日目の夕方、アウステルに着いた。街は、何も変わっていなかった。屋根の高さが揃い、鐘は正確な時刻に鳴った。掲示板の配給基準も、同じ書式で貼られていた。総監が代わったことを示すものは、通りのどこにもなかった。
ヴェルナー・クライストは、市街の南に住んでいた。三階建ての集合住宅の、二階の一室だった。財務総監の私邸ではない。もともと、そこに住んでいたのだと管理人が言った。二十年以上、同じ部屋だと。
扉を叩くと、本人が開けた。外套は着ていなかった。それだけで、ずいぶん違う人に見えた。
「アレン殿」
「突然に、失礼します」
「――どうぞ」
部屋は、財務総監府の執務室によく似ていた。机が一つ、椅子が二つ、書棚が二つ。装飾はない。違うのは、書棚が空になりかけていることだった。床に、紐で縛った紙束が積まれている。
「引き払われるのですか」
「返却です」
ヴェルナーは、椅子を勧めた。
「公文書の写しは、退任時に返します。私物と混じっていたものを、いま分けています」
「手伝いましょうか」
「結構です」
彼は、机の前に座った。
「可決されたと聞きました」
「はい」
「賛成十一」
「よくご存じで」
「見ておりますので」
彼は、それ以上説明しなかった。沈黙が、少し続いた。
「アレン殿」
「はい」
「なぜ、来られました」
アレンは、鞄から紙の束を出した。白紙だった。罫線だけが引いてある。ヴァイセンで使ったものと、同じ様式だった。
「記録を取りに来ました」
ヴェルナーが、その束を見た。
「……記録」
「あなたの設計思想を、書き残します」
彼は、机の上に紙を置いた。
「一・二という数字は、あなたが作りました。修正案の第一条は、あなたの条文をそのまま使っています。影響予測監査の停止という判断も、加盟国の財政負担の推計も、五年で三か国が脱落するという見通しも、全部あなたのものです」
「――」
「あなたが今、公式の記録に残っているのは、三行です。〈東部ヴァイセン地区における配給行政について、承認手続きに重大な確認不足が認められた〉。〈当該手続きの承認者は、財務総監ヴェルナー・クライストである〉。〈以上により、同職を解く〉」
アレンは、顔を上げた。
「それは、正確ではありません」
ヴェルナーは、動かなかった。窓の外で、鐘が鳴った。六時。正確な時刻だった。
「アレン殿。誤解しておられるかもしれませんが」
やがて、彼は言った。
「私は、救済を求めておりません」
「存じています」
「あなたが今なさろうとしていることは、私の名誉を回復する行為に見えます」
「見えるでしょうね」
「私は、それを望みません」
「私も、するつもりはありません」
アレンは、そう答えた。声は、いつもと同じ高さだった。
「あなたを救うつもりはありません」
ヴェルナーが、こちらを見た。
「あなたが処理されたのは、あなたが二十数年かけて作った仕組みが、正しく動いた結果です。私が横から手を入れれば、私はあなたの原則を否定することになります。それはしません」
「では、その紙は」
「記録です」
アレンは、白紙の束に手を置いた。
「あなたを救うためではなく、次に同じ設計をする人のために取ります。一・二を作った過程が残っていなければ、五年後に誰かが、また同じところから始めて、また同じ二年を失います」
「――」
「あなたの失敗も、書きます」
彼は、そこを飾らなかった。
「二年前、あなたは死亡率の推移を見て、追加の確認を求めなかった。その理由も、そのとき何を判断材料にしたかも、全部書きます。隠しません」
ヴェルナーは、長いこと黙っていた。床の紙束の上に、夕方の光が斜めに落ちていた。
「アレン殿」
「はい」
「その記録は、いつまで残りますか」
「永年です」
アレンは、即答した。
「氏名台帳と同じ扱いにします。判断の卓には出しません。検証のときにだけ開きます」
ヴェルナーの指が、机の上で一度だけ動いた。
「――名前を、残すのですね」
「残します」
「私の反対した方式で」
「あなたの条文を使った方式で」
彼はそこで、はじめて息を吐いた。笑ったのではなかった。呆れたのでもなかった。二十数年ぶんの何かが、少しだけ抜けた音だった。
「……分かりました」
ヴェルナーは、椅子を引き直した。
「どこから始めますか」
「はじめから」
アレンは、羽根ペンを取った。
「東部で麦が枯れた年からで、よろしいですか」
聞き取りは、四日かかった。一日目は、二十数年前の配分表の話だった。二日目は、名簿を廃止した年の抵抗の話。三日目は、簡略方式の設計の経緯と、ロートという若手を抜擢した理由。四日目に、ヴァイセンの話をした。その日だけ、彼の答えは短かった。
「見ました」
「はい」
「上がっていました」
「はい」
「寒い年だと思いました」
「はい」
「――思うことにしました」
アレンは、その一行を、そのまま書いた。書き終えて顔を上げると、ヴェルナーは窓のほうを向いていた。
最終日、荷をまとめて宿へ戻る前に、アレンは一つだけ尋ねた。
「これから、どうされますか」
「決めておりません」
「一つ、申し上げてよろしいですか」
「どうぞ」
「五年後に、修正案の再検証があります」
アレンは、そう言った。
「検証をする者は、判断をした者であってはなりません。あなたは、もうこの制度の判断者ではありません」
ヴェルナーは、しばらくこちらを見ていた。
「――それは、勧誘ですか」
「事実の説明です」
「あなたも、たいがい怖い方だ」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
外に出ると、日が落ちかけていた。通りの掲示板の前に、女が一人立って、配給基準を読んでいた。指で行を追っている。読んでいる人が、そこにいた。
戦後処理官は知っている。
戦後というのは、戦のあとのことではないということを。
誰かが正しく作ったものが、正しく壊れたあとに残るもの――それもまた、処理すべき戦後だということを。
修正案は可決されました。次回で、この部は区切りとなります。




